I 201-400 

フォイエルバッハ「キリスト教の本質」  荘子外篇 韓非子 カー「歴史とは何か」 荀子 世阿弥「風姿花伝」 ニーチェ「ツァラトゥストラ」 新約聖書

201 イエスに向かひて立てる百卒長、かかる様にて息絶え給ひしを見て言ふ「実にこの人は神の子なりき」。 [マルコ伝  15-39]

202 預言者は己が郷にて喜ばるることなし。 [ルカ伝 4-24]

203 なんぢら己を愛する者を愛せばとて,何の嘉すべき事あらん. [ルカ伝 6-32]

204 なんぢら我を「主よ主よ」と呼びつつ、何ぞわが言ふことを行はぬか。 [ルカ伝  6-46]

205  多くあたえらるるものは多く求められん  [ルカ伝 12-48]

206  人は天より與へられずば、何をも受くること能はず。 [ヨハネ伝 3-27]

207 人間が復讐心から解放されること,これがわたしにとっては最高の希望への橋であり,長い荒天の後の虹である. [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  毒ぐも]

208 君たち,価値評価を行なう者よ,君たちは,善と悪についての君たちの評価と言葉によって,暴力をふるっている. [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  自己超克]

209 友らよ.君たちはいうのだな,趣味と味覚は論争の外にあると.しかし生の一切は,趣味と味覚をめぐる争いなのだ. [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  崇高な者たち]

210 わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる.それゆえにわたしは君から善を期待するのだ. [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  崇高な者たち]

211 あたりを見まわすと,わたしと時を共にする道連れは,ただ時だけであった. [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  教養の国]

212 世界の回転の軸となるのは。新しい喧噪の発明者たちではない、新しい価値の発明者たちである。世界は音もなく回転する。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  教養の国]

213 刑罰とは、復讐が自分自身にたいしてあたえた名である。復讐は、いつわりのことばによって、おのれの良心がやましくないことを装ったのだ。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  救済]

214 物まねを極めて、その物にまことに成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし。 [世阿弥「風姿花伝」別紙口伝]

215  芸能の位上がれば、過ぎし風体をし捨てし捨て忘るる事、ひたすら、花の種を失ふなるべし。---中略--- ただ、返す返す、初心を忘るべからず。 [世阿弥「風姿花伝」別紙口伝]

216 秘する花を知る事.秘すれば花なり.秘せずば花なるべからず,となり. [世阿弥「風姿花伝」別紙口伝]

217 これは花ぞとも知らぬが為手の花なり。 [世阿弥「風姿花伝」別紙口伝

218 かかる秘事を知れる人ぞとも,人には知らるまじきなり. [世阿弥「風姿花伝」別紙口伝

219 能にも,よき時あれば,必ず,また,わろき事あり.これ力なき因果なり.これを心得て,さのみに大事になからん時の申楽には,立合勝負に,それほど我意執を起さず,骨を折らで,勝負に負くるとも心に懸けず,手を貯いて(たばいて),少な少なと能をすれば... [世阿弥「風姿花伝」別紙口伝

220 山を移そうとする者は、谷と低地をも移すのだ。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  最も静かな時刻]

221 嵐をもたらすのは、もっとも静寂なことばだ。鳩の足で歩んでくる思想が世界を左右するのだ。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  最も静かな時刻]

222 手にて造れる物は神にあらず。 [使徒行伝 19-26]

223 Naming a sorrow is a first step to forgetting it.  [D. Garnet, A man in the zoo]

224 深夜彼は夢を見る,それは迷走神経を刺激すると起こる心臓搏動の弛緩が,神経末端から放出される化学物質によるものであることを証明するための完璧な実験計画の夢であった,彼は即座にはねおき,ベッドのわきのテーブルをさぐって鉛筆を取り ... 短いメモをなぐり書きする. 

 朝になった.彼は自分の走り書きが判読できない.... 彼は自分のアイディアがどうしてもおもいだせないのだ. ... 彼はまた同じ夢を見る.こんどは彼はすぐさま研究室にとんで行き,その日のうちに研究は完成した.  [W. G. van der Kloot, 「生理学における論理学的手段」科学37(1) p35]

225  天才の歩む途は、もしそれを初登攀しなくてもよいのなら、つねにきわめて容易なルートなのである  [W. G. van der Kloot, 「生理学における論理学的手段」科学37(1) p36]

226 何故人を教えて、己を教えぬか。 [ロマ書 2-1]

227 Einsteinは,化学という学問のもつ悩みは化学が化学者にとってむずかしすぎることだと述べている. [W. J. Moore 「新物理化学」序 pi]

228 生物学的カルチュアは物理的科学のカルチュアほど精密でなく,漠然としており,それゆえ軽視されがちである.その上,生物学的カルチュアは手に入れのもむずかしく,使いこなすこともむずかしい. [W. G. van der Kloot, 「生理学における論理学的手段」科学37(1) p38]

229 想像力が働くのは,われわれが己れの研究体験をもっていて,それをわれわれの科学的放浪から得られた偏見という枠組みに照らして判断するときにはじめて可能なのである. [W. G. van der Kloot, 「生理学における論理学的手段」科学37(1) p39]

230 いったいおまえを不平の豚にしたそもそもの原因は何か。それはだれもおまえの気に入るようにおまえに媚びてくれないということだ。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  通過]

231 人は愛することができない場合には,そこを---通り過ぎるべきなだ. [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラ言説  通過]

232 おまえの内部にいる臆病な悪魔、ともすれば合掌し、手を膝におき、安易に生きたがる者---この臆病な悪魔がおまえに説きつけるのだ、「神はある」と。  [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  離反者2]

233 神々はあるが、唯一の神はない。そういうことこそ、神的な事ではないか。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  離反者2]

234 それに反してあの下界では---一切が語っていて,一切が聞きのがされる.人が鐘や太鼓を鳴らして自分の知恵を売りつけても,それは市場の小商人たちの銅貨の音でかき消されるだろう.---中略--- 

 其処では一切が語っている.... 一切が鵞鳥のように鳴き立てる.しかし静かに巣ごもりして卵を孵そうとするものはいない.  [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  帰郷]

235 すべての人間には、あまりに多くの前景がある。---そこでは、遠くを見ることができる目、遠くを求める目が、なんの役に立つだろう。  [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  帰郷]

236 「さてこれが---わたしの道だ---君たちの道はどこにある?」「道はどこだ」とわたしに尋ねた者たちにわたしはそう答えた.つまり万人の道というものは---存在しないのだ.  [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  重さの零2]

237  人は他者の享受に貢献しなかった場合には、享受しようとしてはならない。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  新旧の表 5]

238  価格のある物は、すべて価値の乏しいものである。  [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  新旧の表 12]

239 これから君たちに名誉をあたえるものは、君たちがどこから来たかということではなくて、君たちがどこへ行くか、ということでなければならぬ。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  新旧の表 12]

240 木のうちの最悪のもの,十字架の生い立つような地に,讃えるべきことは何もない. [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  新旧の表 12]

241 かびも、ものごとにありがたみをつけるのだ。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  新旧の表 13]

242 自分を抑制して,通り過ぎる方が,より多くの勇気の例証であることが,しばしばある.それはいっそうおのれに値する敵と戦うために,おのれを貯えておくのである. [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  新旧の表 21]

243  わたしの兄弟たちよ、君たちは、いっそうおのれに値する敵と戦うために、おのれを貯えておかねばならぬ。それゆえに君たちは多くの者を無視して通り過ぎねばならぬ。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  新旧の表21]

244 偉大な人間が苦痛の叫びをあげると---みるみるうちに小さい人間が走り寄ってくる.その口からはみだらな歓びのため舌が垂れ下がっている.だが人間はそれをおのれの同情とよぶのだ. [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  快癒しつつある者2]

245 お前たちは、「罪びと」、「十字架をになう者」、「贖罪者」などと自称する者たちすべての訴えや告発のなかに含まれている快感を、聞きもらさぬがよい。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  快癒しつつある者2]

246 呪術はすべて必然的に虚妄であり無効であると説くのはもはや愚論であり贅言だと言える.それがもし真実に有効であるなら,もはや呪術ではなく科学だからである. [フレーザー「金枝篇」第4 呪術と宗教]

247 平均した人間は臆病だぞ. ... 君がたはやって来たくはなかったんだ.平均した人間はいざこざや危ないことは嫌いだ.君がたもいざこざや危ないことは嫌いなのだが『半かけら人間』が ... 『私刑にしろ!私刑にしろ!』と怒鳴れば,君がたは手を引くことを恐れるのだ---自分のほんとうの姿がどんなものか---臆病者だということが---知られてしまうのを恐れているのだ.それで,君がたはどっと喚き,あの半かけら男の上着の尻尾にくっついて押しかけて来たのだ.なによりも憐れむべきは暴徒だ。軍隊だってそうだ---暴徒なのだ。自分の身内から涌き起こった勇気でたたかうんじゃない。その集団から、その上官から借りて来た、借り物の勇気で戦うのだ。 [マーク・トウェイン「ハックルベリー・フィンの冒険」 22 私刑の失敗]

248 江青同志よ,あなたはこういうことを考えたことがあるだろうか.ないがしろにされている多くの同志たちのなかには,反革命の三角帽子をがぶらされる危険を感じながらも勇敢に立ち上がっていることを.そういう人たちはいろいろの原因から誤りも犯した.しかし彼らは究極的には革命的な人たちである. ... 彼らの意見の中には多くの真実がある. [馮海青,陳加安ら37 1967.1.25 北京市内大字報「毛主席の絶対的権威を確立するために江青同志にあたえる」西日本新聞]

249 未開人は人類のうちで最も自由なものだというこれまでの説は,実は全く事実の逆である.彼は奴隷である.ただに見える主人の奴隷であるばかりでなく,過去の奴隷であり,生まれおちてから死ぬまでいつも彼につきまとい鉄の鞭をもって監視を怠らない死せる祖先の奴隷なのである. [フレーザー「金枝篇」第3 共感呪術]

250 最も弱小で愚鈍な者は、自分自身は上昇しえないけれど他の者は下降しうるところから、最も手腕のある優秀な者を引きずりおろして標準を平均化してしまう。自然的不平等、すなわち生得の才能と気質の幾多の本質的差異を、虚偽の表面的平等と化することが人間に可能である限り、このような社会の表面はただなんの変哲もない死の水平を現出するだけである。 [フレイザー「金枝編」第3章 共感呪術]

251 文明への最初になされた大飛躍は,最高の統治者が王と神の二重格において庶民の奴隷的帰順を要求し,それを得たエジプト,バビロン,ペルーなどのような専制あるいは神権政体のもとにおいてなされたこともまた偶然ではない.このように初期の社会では、専制主義は人道の最善の友であり。また逆説的に聞こえるかもしれないけれども、それはまた自由の最善の友であるといっても決して過言ではないのである。 [フレイザー「金枝編」第3章 共感呪術]

252 およそあらゆる人間の運命のうち最も過酷な不幸は,地上の権力者が同時に第一級の人物ではないことだ. [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  王たちとの会話1]

253 かれは秘密の多い、隠れた神だった。まことに、一人の息子を生ませるときさえ、間道を通った神である。かれへの信仰の入口にあるものは姦通である。  かれを愛の神としてたたえる者は、愛そのものを十分に高いものとして考えていない者である。この神は審判者にもなろうとしたではないか。愛することの深い者は、褒賞と報復を越えて愛するはずである。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  退職]

254 雲から放たれて、此処にある水は同じ味であるが、雑草、潅木の類は、その能力に応じ、境遇に応じて、それを飲む。いずれの高い樹,太い樹も、小さな樹、また中くらいの樹も、その勢により、その力に応じて、すべて水を飲む。それらは水を飲み、思いのままに成長する。 

 ---中略--- 

降りそそがれた水は同じ味とはいえ、それらは各々に成長する。まさしく、そのように、この世に於ける雲であるブッダは、カーシャパよ、この世に生まれでる。 [法華経 薬草喩品]

255 すべての教えが平等であることを覚ることから、カーシャパよ、さとりの境地は開けるのだ。従って、唯ひとつのさとりの境地があるのであって、二つあるいは三つあるのではない。 [法華経 薬草喩品]

256 警戒せよ、とどのつまりおまえがなんらかの偏狭な信仰に捕らえられ、閉じこめられるということがないように。過酷な、峻烈な迷妄こそ、おまえをとりこにする危険がある。すなわちこれからおまえは、偏狭であって確固としているすべてのものに引き寄せられ、誘惑されるのだ。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  影]

257 わたしが万人に語りかけたとき、わたしは何びとにも語りかけていなかった。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  高人 1]

258 「アメリカの飛行機が白い粉をまいたら二,三日で枯れてしまった.みんな十年も二十年もかかって大きくなったヤシの木だ.うちの村だけで一年に十二万トンものヤシ油がとれていた.それがわしらの暮らしを支えていた.」--- 避難民村である年寄りが,涙を浮べて話すのを聞いた.タチケ村,スワンドク村,ビンタン村どれもこれも同じような``死の村''だった.この作戦で約一万六千人の農民が村を追われ.五ヶ所の避難民村に収容された.もちろん,女と子どもと,年寄りばかりである. [2/2, 1967 クィニョンにて,奥村朝日新聞特派員]

259 弓矢の要る中はまだ射之射ぢゃ。不射之射には、烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ。[中島敦「名人伝」]

260 あなたがたは豪胆であるか。目撃者のあるところでの勇気ではなく、もはや見ている神もない孤独者の勇気鷲の勇気をもっているか。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  高人 4]

261  あなたがたの能力以上のことを望むな。 能力以上のことを望む者たちには、邪悪な欺瞞がやどる。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  高人8]

262 賎民が一度、論拠なしに信じたことを、だれが論拠によって---くつがえすことができよう。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  高人 9]

263 もし市場で真理が勝ちをおさめることがあったら、疑い深く自問するがいい。「どんな強力な誤謬がその勝利を助けてくれたのか」と。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  高人 9]

264 かれらは、嘘をいわないといって胸を張る。しかし、嘘をいう能力がないことと真理への愛があることとには千里の差がある。... 嘘を言う能力のない者が、真理が何であるかを知っているはずがない。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  高人 9]

265  高所に登ろうとするなら、自分の足を用いよ  [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  高人 10]

266 あなたがた、創造する人々よ、この「のために」を忘れよ。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  高人 11]

267 「神は霊だ」と語った者は---これまでに地上において、無信仰に向かう最大の跳躍を行った者だ。 [ニーチェ「ツァラトゥストラ」ツァラトゥストラの言説  驢馬祭]

268  共産党員はどのようなことがらに対してもかならずなぜかを問うてみなくてはならず、かならず自分の頭で綿密に考えて、それが実際に合致しているかいなか、ほんとうに道理があるかいなかを考えてみなくてはならず、ぜったいに盲従すべきではなく、ぜったいに奴隷主義をもちだすべきではない。 [毛沢東「毛主席語録」 28 共産党員]

269 どんな一定の宗教もどんな信じ方もまた同時に考え方である、ということは自明である。 [ フォイエルバッハ「キリスト教の本質」  第一版への序言]

270 宗教がもはや人間にしみこんでいる真理であることをやめたとき---そのときこそ始めて信仰や宗教やと理性との矛盾が特別な語勢で強調されるのである。 [フォイエルバッハ「キリスト教の本質」 第一版への序言]

271 信仰の対象が反理性的なのはただ不信仰にとってだけのことであって、それに反し、いったんそれらの対象を信じるものはそれらの対象の真理性を確信しているのであり、またその人にとってはそれらの対象こそが最高の理性としてみとめられているのである。 [フォイエルバッハ「キリスト教の本質」 第一版への序言]

272 信仰もまた自然的理性を棄却することができない... [フォイエルバッハ「キリスト教の本質」 第一版への序言]

273 理性は規則であり、信仰は例外である。それ故に、最良の調和の中でさえ、理性と信仰との間の衝突はさけられない。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第一版への序言]

274 見せかけは現代の本質である.われわれの政治も見せかけであり,われわれの道徳も見せかけであり,われわれの宗教も見せかけであり,われわれの学問も見せかけである.今は,真理を語るものは厚顔であり「不作法」なものは不道徳である.真理はわれわれの時代にとっては不道徳である. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二版への序言]

275 凡庸な人間は何事にも始末をつけずまたどこでも根本にまで立ち入らないために道徳的であるが、しかし天才は自分の問題を片づけ徹底的に究明するために不道徳的である。かんたんに言えば道徳的なのはただ虚偽だけである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二版への序言]

276 私は思想から対象を産出するのではなく,逆に対象から思想を産出するのである.ところで対象とはもっぱら頭脳の外部に実存するものである.私はただ実践哲学の領域でのみ観念論者=理想主義者である.すなわち私はここでは現在や過去やの制限を人類や未来やの制限にはしないのである. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二版への序言]

277 私は全く多くのものを私の外部にもっている。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二版への序言]

I have many things outside myself (preface)

278 私の著書は,たとい全く独立な産物であるにしても,しかも同時に単に歴史の必然的帰結に過ぎない. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二版への序言]

279 私の著書の根本思想はいつかは確実に人類の財産になるだろう。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二版への序言]

280 各々の遊星は自分自身の太陽をもっているのである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 緒論 第一章 人間の本質]

281 人間の神は人間がもっているだけの価値をもっており、そしてそれ以上の価値はもたない。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二章 宗教の本質]

282 おれは、国家間を対立させている経済的闘争... その中にそれに介入させる必要のない道徳的価値判断を入れたこと自体、大きなあやまちだと思うんだ。 [ マルタン・デュ・ガール 「チボー家の人々」 1914  57]

283 作ることと並んで,知る'というもう一つの人間独自の活動,すなわち科学の進歩の必要性が強調さるべきなのである.さもなくば,現代の人類は,持ち上げられる限りの重い積み木をつみ上げて,その高さに狂喜している子供と変わるところがなくなってしまう.彼はそれがくずれたとき,どんな怪我をするか知らないし,ほとんど知ろうともしない.  [C.H. 「破壊される自然と人類の適応性」 科学 vol.¥ 37(3)]

284 天下の善人は少なくして不善の人は多ければ、則ち聖人の天下を利するや少なくして天下を害するや多し。 [荘子外篇 (月去)篋篇]

285 故に天下皆その知らざる所を求むるを知るも、而も其の己に知れる所を求むるを知る者莫し。皆其の善しとせざる所を非とするを知るも、而も其の己に善しとする所を非とするを知る者莫し。 [荘子外篇 (月去)篋篇]

286 夫れ恬(てん)ならず(自然の安らかのないこと)愉ならざる(自然の楽しさに反す)は、徳に非ざるなり。徳に非ずして長久なるべきものは、天下に之れ無し。 [荘子外篇 在宥篇]

287 諸君は、《何をすべきか?》と、言うだろう。そうだ。《されるままになっていてはいけない》のだ! [マルタン・デュ・ガール 「チボー家の人々」 1914 58]

288 無を見る者は天地の友なり。 [荘子外篇 在宥篇]

289 其の生くるや浮かべるが若く、其の死するや休(いこ)うが若し。 [荘子外篇 刻意篇]

290 優秀な人々があきらめるであろうとき、そして、できごとの宿命性といったような神話の前にかぶとをぬぐであろうとき、そのときすべてはとりかえしのつかないことになる! [マルタン・デュ・ガール 「チボー家の人々」 1914 64]

291 エディポスにでも予告があった。だが、彼は、その運命の日にかって自分に告げられた恐ろしいことを忘れていた。 [マルタン・デュ・ガール 「チボー家の人々」 1914 69]

292 人間は、真の英知の日に達するまでに、まだまだたくさんなつらい経験をなめなければならないのだ! ... そうした日にこそ、人間ははじめて、この地球上に生きてくため、科学の教えてくれたものを、ただつつましく利用するようになるだろう。 [マルタン・デュ・ガール 「チボー家の人々」 1914 69]

293 人間は,平和を望んでいればいるだけ,自分の国や,同胞にはなんの罪もないように思いたがるということから,それだけわけなく,戦争の脅威はもっぱら外国から来るものであり,自分の国の政府には責任がなく,自分はつまり被害者たる国家に属していることからそうした国家を守ることによって,自分を守るべきだと思いこますことができるんだ, [マルタン・デュ・ガール 「チボー家の人々」 1914 69]

294 己れを物に喪い、性を俗に失う者、之を倒置の民と謂う。 [荘子外篇 繕性篇]

295 井蛙は以て海を語るべからざるものは、虚(居所)に拘(なず)めばなり。夏虫は以て冰を語るべからざるものは、時に篤ければなり(= 時間のすべてと思う)。曲士(= 物事の大局を見知らぬ男)は以て道を語るべからざるものは、教えに束らるればなり。今、爾は崖*(さんずい+矣)を出でて大海を観、乃ち爾の醜を知れり。爾、将に与に大理を語るべからんとす。 [荘子外篇 秋水篇]

296 道を以って之を観れば、物に貴賎無し。物を以って之を観れば、自ずから貴しとして相い賎しむ。 [荘子外篇 秋水篇]

297 其の然る所に因りて之を然りとすれば、則ち万物然らざるは無し。其の非なる所に因りて之を非とすれば、則ち万物非ならざるは無し。 [荘子外篇 秋水篇]

298 牛馬の四足なるを是れ天と謂う。馬首を落い(まとい=くくり)、牛鼻を穿つ、是れを人と謂う。 [荘子外篇 秋水篇]

299 僧侶たちは神的存在者に純潔を誓った.彼らは異性愛そのものを押さえつけた.しかし彼らはその代わりに天国のなかに,神の中に,処女マリアにおいて,女の形象---愛の形象--- をもっていた.表象された理想的な女が彼らにとって実際の愛の対象になることが多ければ多いほど,それだけますます多く彼らは実際に女なしで過ごすことができたのだった.彼らは感性の否定に認める意義が大きければ大きいほど,彼らにとって天上の処女がもっていた意義はそれだけますます大きいのであった.彼らにとっては天上の処女はキリストや神に代わりさえした. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二章 宗教の本質]

300 感性的なものが否認されることが多ければ多いほど,感性的なもののいけにえの対象である神はそれだけますます感性的になる.すなわち,人びとが神性にささげるもの --- 人びとはそのものにこそ特殊な価値を認めるのであり,そのものにおいてこそ神が特殊な満足を感じるのである. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二章 宗教の本質]

301 一般に人間の気にいるものは神にもまた気にいる。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二章 宗教の本質]

302 尼僧は神と結婚する。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二章 宗教の本質]

303 人間は人間的な名誉や人間的な自我を否認する.しかしその代りに人間にとっては神が,すべてのもののなかでただ自己だけを,ただ自分の名誉だけを,ただ自分の利益だけを求めているところの,主我的で利己的な存在者である.人間にとっては神はまさに,すべての他のものをきらう自分自身の我欲の自己満足であり,利己主義の自己享楽である. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二章 宗教の本質]

Man renounces himself as a person only to discover God, the omnipotent and the. infinite, as a personal being; he denies human honour, the human ego, only to have a God that is selfish, egoistic, who seeks in everything only himself, his honour, his advantage, only to have a God whose sole concern is the gratification of his own selfishness, the enjoyment of his own ego. 

304 もしも私の心情が邪悪であり私の悟性が堕落しているならばそのときは私はどうして、神聖なものを神聖なものとして、そして善いものを善いものとして、知覚したり感じたりすることができるだろうか? [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第二章 宗教の本質]

If I am absolutely, i.e., by nature wicked and unholy, how can holiness and goodness be the objects of my thought – no matter whether these objects are given to me internally or externally? 

305 吾れ未だ善の誠に善なるか誠に不善なるかを知らず---中略---誠に善有りや有ること無きや. [荘子外篇 至楽篇]

306 今.俗の為す所と其の楽しむ所とは,吾れ又た未だ楽なるか,果たして楽ならざるかを知らず.吾れ夫の俗の楽しむ所を観るに,群を挙げて趣く者,こうこう然として(死地におもむくように)将に已むを得ざらんとするが如し. [荘子外篇 至楽篇] (こう=言偏に經の旁

307 至楽は無楽、至誉は無誉。 [荘子外篇 至楽篇]

308 魚は水に処(お)りて生き、人は水に処りて死す。 [荘子外篇 至楽篇]

309 凡そ外重き者は内拙し。 [荘子外篇 至楽篇]

310 足を忘るるは履の適なり。要を忘るるは帯の適なり。知の是非を忘るるは心の適なり。 (是非価値判断) [荘子外篇 至楽篇]

311 ---少なくとも宗教的な神---に対する信仰が失われていくのはただ懐疑論・汎神論・唯物論の場合がそうであるように人間---少なくとも宗教において認められているような人間---に対する信仰が失われところにおいてだけである。それ故に、宗教は人間の虚無性をまじめに取りあつかわず、まじめに取りあつかうことができない。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第四章 道徳的存在者またはおきてとしての神]

312 人間を否認することは宗教を否認することである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第四章 道徳的存在者またはおきてとしての神]

313 悟性はただ人間に対して関心をもつだけではなくて、人間以外の本質(存在者)---自然---に対してもまた関心をもつのである。悟性人はその上自然に夢中になって自分自身を忘却する。キリスト教徒は異教的哲学者を嘲笑した。なぜかといえば異教的哲学者は自分自身---自分の救い---について考える代わりに、ただ自分のことだけを考える。悟性は神の似姿---人間---を考察すると同様な熱意をもってノミやシラミを考察する。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第四章 道徳的存在者またはおきてとしての神]

The intellectual man forgets even himself in the contemplation of nature. The Christians scorned the pagan philosophers because, instead of thinking, of themselves, of their own salvation, they had thought only of things out of themselves. The Christian thinks only of himself. By the understanding an insect is contemplated with as much enthusiasm as the image of God – man. 

314 悟性は普遍的で汎神論的な本質(存在者)であり,宇宙に対する愛である. [フォイエルバッハ 「キリスト教本質」 第四章 道徳的存在者またはおきてとして]

The understanding is universal, pantheistic, the love of the universe

315 神は人間を神化するために自己を人間化すると宗教はいうのである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第五章] (653) 

God, says religion, made himself human that he might make man divine. 

316 夫れ利を以って合する者は、窮禍患害に迫られて相い棄つるなり。天を以って属する者は、窮禍患害に迫られて相い収むるなり。夫れ相い収むると相い棄つると亦遠し。且つ君子の交りは淡きこと水の若く、小人の交りは甘きこと醴(=あまざけ)の若し。君子は淡くして以って親しみ、小人は甘くして以って絶つ。彼の故無くして以って合する者は、則ち故無くして以って離る。 [荘子外篇 山木篇]

317 士,道徳有りて行う能わさるは,憊(つか)れたるなり. [荘子外篇 山木篇]

318 爵禄並び至りて窮せざるは、物の利する所にして、乃ち己れに非ざるなり。 [荘子外篇 山木篇]

319 夫れ哀しみは心死(精神の死)より大なるは莫くして人死も亦之に次ぐ. [荘子外篇 田子方篇]

320 文王,臧(ぞう)に観(あそ)ぶ.一丈夫の釣するを見る.而うしてその釣は釣ること莫し.其の釣を持して釣ること有る者に非ざるなり.されど常に釣る. [荘子外篇 田子方篇]

321 是れ射の射にして不射の射に非ざるなり. [荘子外篇 田子方篇]

322 同じからずして之を同じうするを之れ大と謂う。 [荘子外篇 天地篇]

323 有万にして同じからざるを富という  [荘子外篇 天地篇]

324 物を以って志を挫かざるを之れ完と謂う。 [荘子外篇 天地篇]

325 寿を楽しまず,夭を哀しまず. [荘子外篇 天地篇]

326 冥冥に視、無声に聴く。冥冥の中、独り暁を見、無声の中、独り和を聞く。 [荘子外篇 天地篇]

327 治むるは乱すことの率(さきがけ)なり. [荘子外篇 天地篇]

328 凡そ首有り趾有りて心無く耳無き者は衆し。 [荘子外篇 天地篇]

329 (なんじ),身を之れ治むる能はざるに,何んぞ天下を治むるに暇あらんや. [荘子外篇 天地篇]

330 世俗の然りと謂う所にして之を然りとし、善しと謂う所にして之を善しとすれば、則ち之を道諂の人(=無節操な追随者)と謂わざるなり。 [荘子外篇 天地篇]

331 其の愚を知る者は、大愚に非ざるなり。其の惑を知る者は、大惑に非ざるなり。 [荘子外篇 天地篇]

332 大声は里耳に入らず。 [荘子外篇 天地篇]

333 高言は衆人の心に上らず,至言の出でざるは,俗言勝てばなり. [荘子外篇 天地篇]

334 神が人間のために人間になったり、人間が神の愛の窮極目的、対象になったりするときよりも、人間の価値がいっそう高く表現されるというようなことは、いったいどうして可能であろうか。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第五章]

335 あなた方が罪人をゆるすのは、罪ではなく習慣と思える過ちをおかした時にかぎるのです。---中略---何もゆるす必要などないからゆるすのだ。 [G. K. チェスタトン「ブラウン神父の秘密」マーン城の喪主]

336 鶏が鳴く前に聖ペテロがおかしたような卑しい罪でも、それでも夜明けは来たのです。 [G. K. チェスタトン「ブラウン神父の秘密」マーン城の喪主]

337 そんな卑しい罪はおかさないと言われる。ですが、そういう卑しい罪を告白することがおできになるかな? [G. K. チェスタトン「ブラウン神父の秘密」マーン城の喪主]

338 あなた方が犯罪を恐ろしいと思うのは、自分にはとても犯罪などおかせないと考えているからでしょう。私が犯罪を恐ろしいと思うのは、それを自分でもおかすことができるからです。 [G. K. チェスタトン「ブラウン神父の秘密」フランボウの秘密]

339 現代のいわゆる原住民たちの民族芸術高度に発達している.だからすぐわかることだが「原始美術」についてはっきり言えることは,原始的でない,ということである. [デズモンド・モリス「美術の発生」 序]

340 聖人の静なるや、静なること善きが故に静なりと曰うに非ず。 [荘子外篇 天道篇]

341 私無しとするは乃ち私なり  [荘子外篇 天道篇]

342 意の随う所のものは言を以って伝うべからざるなり  [荘子外篇 天道篇]

343 古の人は其の伝うべからざるものと死せり。  [荘子外篇 天道篇]

344 愛は受難を通してたしかめられる. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第六章]

Love attests itself by suffering.

345 究極的目的をもっている人は自己を支配するおきてをもっている人である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第六章]

He who has an aim has a law over him

346 あきらめられないということが愛の真理なのである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第七章]

347 百に一つの割合で札が籤にあたるということから、すべての人が籤に当たる可能性があると、右翼は結論する。九十九人が必然的にはずれなければならないとは認めないのである。 [ボーヴォワール「現代の反動思想」 第十一章]

348 小忠を行ふは、則ち大忠の賊なり。 [ 韓非子 「十過篇」]

349 凡そ説の難きは,吾が知の以てこれを説くの難きに非ざるなり.また吾が弁の能く吾が意を明らかにすることの難きに非ざるなり.また吾敢えて横逸して(きおくれがして)能く尽くすことの難きに非ざるなり.凡そ説の敵は,説く所の心を知りて,吾が説を以てこれに当つべきに在り.[ 韓非子 説難篇」]

350 知ることの難きに非ざるなり、知に処すること、則ち難きなり。  [ 韓非子 説難篇」]

351 人主の患ひは人を信ずるに在り。人を信ずれば則ち人に制せらる。 [ 韓非子 備内篇」]

352 無為無を以て虚と為す者は,其の意常に虚を忘れず.是れ虚たるに制せらるるなり.  [ 韓非子 解老篇」]

353 千丈の堤も螻蟻の穴を以って潰え,百尺の室も突隙(煙突)のけむり(火篇に票)を以て焚く.  [ 韓非子 愉老篇」]

354 昔,紂,象箸を為りて箕子恐る.  [ 韓非子 愉老篇」]

355 利の在る所、みな賁(斉の力士 孟賁)、諸(ちょ 呉王僚を刺殺した専諸)たり。 [ 韓非子 説林篇」]

356 智を挟みて問う. [ 韓非子 内儲説上七術篇」]

357 刑当たれば多きことなく,当たらざれば少なきことなし. [ 韓非子 難篇」]

358 われわれは劣っていたり有害であることを不可避であると受け入れる催眠状態に陥ってしまったのだろうか、まるで善いものを要求する意志や洞察を失ってしまったかのように。  [R. Carson, ``Silent Spring'' The obligation to Endure]

Have we fallen into a mesmerized state that makes us accept as inevitable tha which is inferior or detrimental, as though having lost the will or the vision to demand that which is good? 

359 これはまた企業によって支配されている時代でもある、そこではいかなる犠牲のもとでも一ドルを儲けることにはほとんど異議を差し挟まれることがない。殺虫剤散布の明白な有害な結果に直面して、公衆が抗議すると、半分だけの真実という精神安定剤が与えられる。このような虚偽の保証、受け入れがたい事実をくるむ糖衣、を終わらせる早急な必要がある。 [R. Carson, ``Silent Spring'' The obligation to Endure]

It is also an era dominated by industry, in which the right to make a dollar at whatever cost is seldom challenged. When the public protests, confronted with some obvious evidence of damaging results of pesticide applications, it is fed little tranquillizing pills of half truth. We urgently need an end to these false assurances, to the sugar coating of unpalatable facts. 

360 個人の才能を歴史における創造力として要請しようという欲求は、歴史的意識の原始的段階の特徴であります。 [EH ・カー 「歴史とは何か」 II 社会と個人]

361 問題は、人間を個人として見る見方と、人間を集団のメンバーとして見る見方とのどちらかが人々を誤解に導くかというというようことではなくて、人々を誤解に導くのは、両者の間に一線を劃そうという試みなのです。 [EH ・カー 「歴史とは何か」 II 社会と個人]

362 歴史というのは、相当の程度まで数の問題だということです。 [EH ・カー 「歴史とは何か」 II 社会と個人]

363 運動は少数者から始まるものである、としたり顔に説く人がいるからといって、私たちは慌てる必要はありません。すべて有力な運動には少数の指導者と多数の追随者とがあるものですが、しかし、このことは、多数者が運動の成功にとって大切でないという意味ではありせん。歴史では数が大切です。 [EH ・カー 「歴史とは何か」 II 社会と個人]

364 すべての社会は社会的闘争の舞台であって,既存の権威に向って自分を対立させている個人も,この権威を示持する個人に劣らず.その社会の産物であり,反映であります. [EH ・カー 「歴史とは何か」 II 社会と個人]

365 一般化は歴史には縁がないと説くのはナンセンスな話で、歴史は一般化の上にこそ育つのです。 [EH ・カー 「歴史とは何か」 III 歴史と科学と道徳]

366 代償を払う人間が利益を得る人間と一致することは稀にしかないのです。 [EH ・カー 「歴史とは何か」 III 歴史と科学と道徳]

367 あることを不運として描くのは、その原因を究めるという面倒な義務を免れようとする時に好んで用いられる方法であります。 [EH ・カー 「歴史とは何か」 IV]

368 墨家は古代において早くも近代を指向し,それゆえに絶滅し,またそれゆえに想起された思想集団である. [渡邊卓「東洋思想4 墨家思想」 p3]

369 墨家は,熱烈な勤労精神に支えられてみずからを律すると共に,広く人々に呼びかけ社会倫理をも開発したのである. [渡邊卓「東洋思想4 墨家思想」 p28]

370 墨子は孔子の思想に多くを学びながらも,その限界をつきやぶることによって思想界に躍りでたのである. [渡邊卓「東洋思想4 墨家思想」 p32]

371 さて兼愛・非攻の二大口号を掲げて世に頭角をあらわした墨子は救世の精神に燃え,同時に墨家集団を組織したと思われる.この集団は,すでに示唆したように「悪を禁じ愛を勧める」(兼愛上)ことを名目として結成された.墨子は弱者支持の立場に立ち,強国の侵略を実力で阻止し,戦禍に脅える微弱な邑民を救済し,非攻の口号を貫徹しようとめざしたのである. [渡邊卓「東洋思想4 墨家思想」 p34]

372 墨家は儒説のなかから敬の精神を重視する面だけを取り,貴賤の別を力説する面を捨てたのである. [渡邊卓「東洋思想4 墨家思想」 p72]

373 墨子は著述によって知名となった思想家ではなく、口号と行動とによっ

て一世を衝動した思想家である。 [渡邊卓「東洋思想」4 墨家思想 p85]

374 モーゼの宗教における創造は,偶像に対立して,エホバのために最高の・第一の・真の・排他的な神という述語を確保するという目的をもっているのである. [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十章]

The creation in the Mosaic religion has for its end to secure to Jehovah the predicate of the highest and first the true and exclusive God in opposition to idols.

375 君子曰く,学は以て已むべからず.青は藍より取り而も藍より青く,冰は水これを為りて而も水より寒たし.  [ 荀子「 勧学篇」]

376 高山に登らざれば天の高きことを知らず、深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず。 [荀子「勧学篇」]

377 福は禍ひなきより長なるはなし。 [荀子「勧学篇」]

378 吾、嘗て終日思うも、須臾の学ぶ所に如かざるなり。 [荀子「勧学篇」]

379 騏驥(きき)も一躍して十歩なること能はず。駑馬も十駕(が)すれば則ち亦これに及ぶ。功舎(お)かざる(中途でやめない)に在り。 [荀子「勧学篇」]

380 真に積力久しければ則ち入らん。学は没するに至りて而る後に止む。 [荀子「勧学篇」]

381 君子の学は耳より入りて心に著き四体に布きて動静に形(あら)わる. [荀子「勧学篇」]

382 我を非として当たる者は吾が師なり 我を是として当たる者は我が友なり。我に諂諛(てんゆ)する者は我が賊なり。 [荀子「修身篇」]

383 インドシナ戦争に対しても、アルジェリア戦争に対しても、フランスの左翼は「時機を待つ」という口実のもとでまったくの無為に終始した。 [矢内原伊作「サルトル」アルジェリア問題とジョンソン裁判 p91]

384 今日の社会が必要としているのはデザイナーであって芸術家ではない。デザイナーとなることを潔しとしない芸術家は社会から孤立し、不本意ながら無用の存在として、例外者として社会に寄生する。いかにピカソが大衆のために描いても、その絵は大衆とは無縁な富豪の邸宅の奥深くにしまわれているのだ。 [矢内原伊作「サルトル」実存主義と芸術 p110]

385 人は「生まれながらに」できるだけ多くの貨幣をえようと願うものではなくて,むしろ単純に生活する,つまり習慣としてきた生活をつづけ,それに必要なものを得ることだけを願うにすぎないのである. [M.¥ ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 第一章 資本主義の「精神」]

386 自然の神は、神がライオンに強さと巧みな器官とを与えて、ライオンの生命を維持するためには必要な場合にはライオンが人間的個体を殺して食うことさえ可能にする、ということのなかに啓示されている。しかるに聖書の神は、神が人間的個体をライオンの口から再びのがれさせる、ということのなかに啓示されているのである!  [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十一章]

The God of Nature reveals himself by giving to the lion strength and appropriate organs in order that, for the preservation of his life, he may in case of necessity kill and devour even a human being; the God of the Bible reveals himself by interposing his own aid to rescue the human being from the jaws of the lion!

387 摂理に対する信仰は自分自身の価値に対する信仰である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十一章]

Faith in Providence is faith in one's own worth, the faith of man in himself

388 神は私が浄福になることを欲する。しかし私もまた同じことを欲する。したがって、私自身の関心は神の関心であり、私自身の意志は神の意志であり、私自身の究極目的は神の目的であり、私に対する神の愛は私の自己愛が神化されたもの以外の何者でもない。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十一章]

my interest is God's interest, my own will is God's will, my own aim is God's aim, – God's love for me nothing else than my self-love deified.

389 あらゆる事物は、人間のために存在するのであって、事物自身のために存在するのではない。敬虔なキリスト教的自然科学者のようにこの教説を高慢として特色づける人は、キリスト教そのものを高慢として宣言する人である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十一章]

All things exist, not for their own sake, but for the sake of man. He who, like the pious Christian naturalists, pronounces this to be pride, declares Christianity itself to be pride; for to say that the material world exists for the sake of man, implies infinitely less than to say that God – or at least, if we follow Paul, a being who is almost God, scarcely to be distinguished from God – becomes man for the sake of men.

390 人間は自己を自然から区別する。[自然からの]人間のこの区別が人間の神である。すなわち自然からの神の区別は、自然からの人間の区別以外の何物でもない。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十一章]

Man distinguishes himself from Nature. This distinction of his is his God: the distinguishing of God from Nature is nothing else than the distinguishing of man from Nature. 

391 汎神論は人間を自然と同一化する。そしてその場合の自然は、自然の明白な現象であるか、それとも自然の本質が抽出されたものであるか、どちらでもかまわない。人格神論は人間を自然から孤立させ、自然から分離し、人間を部分から全体にし独立した絶対的存在者にする。これが汎神論と人格神論との区別である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十一章]

Pantheism identifies man with Nature, whether with its visible appearance, or its abstract essence. Personalism isolates, separates, him from Nature; converts him from a part into the whole, into an absolute essence by himself. This is the distinction.

392 奇跡に対する信仰が存在するのは、自然がもっぱら恣意の客体として直感されるところにおいてであり、自然がもっぱら自然をまさに単に恣意的な目的のために使用するにすぎない利己主義の客体として直感されるところにおいてである。  [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十二章]

Utilism is the essential theory of Judaism. The belief in a special Divine Providence is the characteristic belief of Judaism; belief in Providence is belief in miracle; but belief in miracle exists where Nature is regarded only as an object of arbitrariness, of egoism, which uses Nature only as an instrument of its own will and pleasure. 

393 エホバはすべての他の民を排除してイスラエル民族の我欲を人格化したもの以外の何物でもない。エホバは絶対的不寛容である。これが一神論の秘密である。  [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十二章]

And all these contradictions of Nature happen for the welfare of Israel, purely at the command of Jehovah, who troubles himself about nothing but Israel, who is nothing but the personified selfishness of the Israelitish people, to the exclusion of all other nations, – absolute intolerance, the secret essence of monotheism.

394 利己主義とは自分の奉仕者を滅亡させない神である。利己主義は本質的に一神教的である。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十二章]

395 利己主義は人間に確実で堅固な生活原理を与える。しかし利己主義は人間を理論的に偏狭にする。なぜかといえば利己主義は人間を、直接的に自己の福祉に関係しないあらゆるものに対して冷淡にするからである。それ故に学問は芸術と同じように、もっぱら多神論から発生するのである。なぜかといえば、多神論はあらゆる美や善に対してなの差別も設けないで、公明で嫉妬心を殺した感覚をもち、世界や宇宙に対して感覚をもっているからである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十二章]

Egoism strengthens cohesion, concentrates man on himself, gives him a consistent principle of life; but it makes him theoretically narrow, because indifferent to all which does not relate to the wellbeing of self. Hence science, like art, arises only out of polytheism, for polytheism is the frank, open, unenvying sense of all that is beautiful and good without distinction, the sense of the world, of the universe .

396 最初は人間が(意識せず意図もしないで)自分の姿に似せて神を作り、そして次に始めて今度はこの神が意識し意図して自分の姿に似せて人間を作るのである。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十二章]

Man first unconsciously and involuntarily creates God in his own image, and after this God consciously and voluntarily creates man in his own image. 

397 祈祷においては、人間は自分の願望に制限が実存していることを忘れており、そしてこういう忘却のなかで浄福を感じている。 [フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」 第十三章]

398 セザンヌは実物のりんごよりも美しいりんごを描いた.しかし彼は実物のりんごの方が描かれたりんごよりも何千倍も美しいことを知っていたのである.セザンヌのりんごが実物のりんごよりもはるかに美しいのは,まさにそれが,実物のりんごが描かれたりんごよりもはるかに美しいことをわれわれに示すからである. [矢内原伊作「サルトル」 実存主義と芸術 p128]

399 森の女神よ、森の女神よ、今や姿も見えがてなる女神、なれいかなれば人里を尋ねざる。 [リグヴェーダ 10.146 森の女神アラニアーニーの歌]

400 ウパニシャドの基本を為す教義を一言で要約すれば,大宇宙(自然界)の本体と小宇宙(個人)の本体とは同一であり,この真理を悟って生死の繋縛から離れて解脱するにある. [辻直四郎 「インド文明の曙」 第十章 p160]