III 301-400 

Gould, “Structure of Evolution Theory” 万葉集 スッタニパータ Browne, “Charles Darwin, Voyaging” 丸谷,岡野,大岡「桜詞華集」 桜井英治「室町人の精神」

301 Methodologically, all leading catastrophists adopted a distinctive attitude towards the geological record. They preached a radical empirical literalism: interpret what you see as a true and accurate record of actual events, and interpolate nothing. How ironic, then, that modern textbook cardboard should misidentify Lyell as an empiricist who, by laborious fieldwork and close attention to objective information, drove the dogmatists of catastrophism out of science.  [S. Gould, Structure of Evolution Theory p485]

302 Dobzhansky’s willingness to accept an incomprehensible literature, and the later acquiescence of so many leaders from other subdisciplines (largely via Dobzhansky’s“translation”), testify to a powerful shared culture among evolutionists –a set of assumptions accepted without fundamental questioning or perceived need to grasp the underlying mechanics. Such a sense of community can lead to exhilarting, active science (but largely in the accumulative mode, as examples cascade to illustrate accepted principles). As a downside, however, remaining difficulties, puzzles, anomalies, unresolved corners, and bits of illogic may retreat to the sidelines– rarely disputed and largely forgotten (or, by the next generation, never learned). [S. Gould, Structure of Evolution Theory p520]

303 I shall never forget a decisive moment in my own early career, when I began to understand thedifference between theoretical power and potentially dangerous overconfidence: Ernst Mayr rising (at theannual meeting of the Evolution Society in New York) to confute the claim for neutralism in synonymousthird position substitutions. Such changes could not, em a priori and in principle he stated, be neutral.Alterations in the third position must impart some difference, perhaps energetic, that selection can ”see”even if the coded amino acid does not alter.  [S. Gould, Structure of Evolution Theory p521]

304 Occam’s razor, in its legitimate application, therefore operates as a logical principle about the complexity of argument, not as an empirical claim that nature must be maximally simple.  [S. Gould, Structure of Evolution Theory p552]

305 「私たちはグールドといわれたって、さっぱり見当がつかなかった。その上プログラムの中心はバッハ。私たちにはバッハなんて無味乾燥で、学校のレッスンでさんざん絞られた経験はあっても、わざわざ演奏会にきてまで我慢してきくような音楽ではない!」(当夜のプログラムは前半がバッハの『フーガの技法』から四曲と「パルティータ]六番、後半はベートーヴェンのソナタ作品109 とベルクのソナタ。アンコールはほとんどバッハだった)。

 会場には音楽の先生ぐらいしか来てなかったとしても不思議ではなかったのである。

 ところが奇蹟が起こった。

 ヴィデオ(9 24 日のカナダの放送の)の数々の証言によると、休憩の後は先を争ってつめかける聴衆で会場は忽ちいっぱいになった。ホンバーガー(グールドのマネージャー)は先の引用のあと「リサイタルの終わりに、ブラヴォーの声と拍手が再びホールに響き渡った。やがて拍手はリズミカルに手拍子に代わった。これはこの国で芸術家に与えられる最高の賛辞なのである」と書いているが、こちらは本当だった。休憩中、モスクワ・フィルの団長が挨拶に来て「あんなフーガの演奏はきいたことがない」と言ったのは作り話ではあるまい。

 またヴィデオの証言に戻ると、休憩になるや否や、人々はさっそく知人に電話をかけまくり、それがまた口から口へと伝えられた結果、ホールには続々聴衆がつめかけたのである。

 何とおもしろい話だろう。始めは好奇心にかられ退屈覚悟で坐っていた客がバッハをそれも『フーガの技法』ですよ!きいただけで即座に認識したのだ。これまでみたことのないような低い椅子に坐って猫背の奇妙な手つきでバッハをひいている青年が全く特異な、しかし純一無雑な天分を放射する音楽家で、バッハの再認識に導いていった、と。この劇的な変化はまたモスクワの聴き手たちの質の高さ、判断力の鋭敏さの証明でもある。 [吉田秀和「グールド没後20年」音楽展望(朝日新聞2002 11 25 日夕刊)2002 9 25 日は生誕70年の日;1957 (24 ) 春のソ連訪問回顧]

306 ポルトガル語ではキリスト教の教会を意味する単語を起源に持つゲレザは、スワヒリ語では監獄という意味になる。 [西江雅之「東アフリカ キルワ遺跡を訪ねる」図書2002,7 p14]

307 カトー曰く神の隠された事柄を探求することなかれ.天に自然の探求をさせよ。汝は死すべき者なのだから、死すべき者を気にかけよ。 [トンマーゾ・カンパネッラ「ガリレオの弁明」第一章の末尾引用 (澤井繁男訳、ちくま学芸文庫)]

308 “Agassiz says that when a new doctrine is presented, it must go through three stages. First, people say that it isn’t true, then that it is against religion, and, in the third stage, that it has long been known.”  [S. Gould, Structure of Evolution Theory p687]

309 A truly effective, and truly Darwinian, eugenics, Fisher argues, will focus on apparently tiny reproductive differentials, and not on the elimination of rare and overt “saltations” –sterilization of the genetically diseased or mentally defective, as in the programs favored by most eugenicists who did not grasp the Darwinian imperative.  [S. Gould, Structure of Evolution Theory p. 513]

310 Can we not gain a visceral (and not only an intellectual) sense of C. H. Waddington’s isolation and irritation when he made his famous comment on the limitations of population genetics (Waddington, 1967), and won admiration for his panache but no consideration for his content: “The whole real guts of evolution–which is, how do you come to have horses and tigers, and things– is outside the mathematical theory.”  [S. Gould, Structure of Evolution Theory p. 584]

310 たしかに、現地を訪れてみると、紅衛兵運動の革命的熱気は、われわれの予想をうわまわる圧倒的な強烈さを示しており、街頭その他の民衆の表情や「毛沢東万歳!」の熱狂的嵐の迫力については、そのつぶさを感じとることができる。だが、連日のように激しく揺れ動く今日の中国の政治の実態とその本音は、やはり「中国を見る」ことによってではなく、中国を訪問するしないにかかわらず、「中国を考える」ことによってしか解明できないのではなかろうか。つまり、われわれが厖大な情報を整理するなかで、その論理化への不断の努力を続けることによってしか、とらえられないのであろう。 [中嶋峯雄「北京烈烈」(講談社学術文庫)p60]

311

あゝをとうとよ、君を泣く、

君死にたまふことなかれ、

末に生まれし君なれば

親のなさけはまさりしも、

親は刃をにぎらせて

人を殺せとをしへしや、

人を殺して死ねよとて

二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの

旧家をほこるあるじにて

親の名を継ぐ君なれば、

君死にたまふことなかれ、

旅順の城はほろぶとも、

ほろびずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、

すめらみことは、戦ひに

おほみずからは出でまさね、

かたみに人の血を流し、

獣の道に死ねよとは、

死ぬるを人のほまれとは、

大みこゝろの深ければ

もとよりいかで思されむ。

あゝをとうとよ、戦ひに

君死にたまふことなかれ、

過ぎにし秋を父ぎみに

おくれたまへる母ぎみは、

なげきの中に、いたましく

わが子を召され、家を守り、

安しと聞ける大御代も

母のしら髪はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く

あえかにわかき新妻を、

君わするるや、思へるや、

十月も添はでわかれたる

少女ごころを思ひみよ、

この世ひとりの君ならで

あゝまた誰をたのむべき、

君死にたまふことなかれ。 

[与謝野晶子「君死にたまふことなかれ 旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて」(「明星」明治37年9月号)

「私はまことの心をまことの声に出し候よりほかに、歌のよみかた心えず候」]

312 ナーガルジュナは、私たちが現に生きている世界、鳥が鳴き、花が咲く世界、名もない牛飼いから世日誌羅れた聖者までが住む世界、この現実世界を決して否定することはない。悲しいかな、私たちは「鳥」「鳴く」「花」「咲く」「牛飼い」「聖者」などのことばとそのようなことばが表す概念の網の目を通さずには。この世界に対峙することはできない。後代の唯識派の学者たちは、それを「無始以来の薫習(=潜在的習慣)と呼んでいるが、ナーガルジュナは、実在の世界がこのことばの網の目によっては決して十全に掬いとれないことを、彼の全作品のなかで様々な角度から繰り返し繰り返し説いているのである。ナーガルジュナにとって、このことばの網を完全に取り払い、概念的思惟を根絶するとき、寂静で一味なる実在の世界が、だれの助けも借りずにおのずから直証される。それが悟りの世界、真実の世界である。 [桂紹隆「インド人の論理学」(中公新書1998) p146-147]

313 (プラトニズムと違って引用者)アビダルマ哲学では、我々は実在するダルマである色を見、音を聞いているのである。ただ、通常そのような経験をことばで言い表すとき、「鳥」や「花」などの表現を使ってしまう。 [桂紹隆「インド人の論理学」(中公新書1998) p150]

314 有部とヴァイシェーシカ学派は、古代インド哲学における一つの流れ、すべての整合的な観念にはそれに対応する実在があるという、範疇論的実在論の考えを共有しているのである。 [桂紹隆「インド人の論理学」(中公新書1998) p150-151]

315 だれもが認める比喩を用いて自己の主張を正当化するのが、インドにおける論証の特徴である。その意味で彼らの論理学は「類比推理」であるという野田又夫の指摘は的を射ているのである。 [桂紹隆「インド人の論理学」(中公新書1998) p168]

316 他心の存在論証に関する限り、19世紀のイギリスの哲学者と7世紀のインドの仏教論理学者(=つまり、縁起説に立つ論理学者)の間に本質的な違いは見いだされない。 [桂紹隆「インド人の論理学」(中公新書1998) p307]

317 1889 年のフランス万国博ではオーナ族の一家が拉致され「南米の人喰い人種」として檻に入れられ見せものにされた。このときはわざと食事を与えないで、よほど空腹になったときに生肉を与えて、それを食べているところを見物客に見せたのだという。 [椎名誠「パタゴニアあるいは風とタンポポの物語」(集英社文庫、1994 p126]

318 白人はインディアンを動物だと公言している一方で、インディアンたちは白人を神々ではないかと疑ってみることで満足している。双方とも無知にはかわりがないとしても、後のやり方が一そう人間的ではある。 [レヴィ=ストロース「悲しき南回帰線」(室淳介訳、講談社文庫)p104]

319

1257 道の辺の草深百合の 花咲みに咲みしがからに妻といふべしや1263 暁と夜烏鳴けどこ の山上(をか)の木末の上はいまだ静けし

1270 隠口の泊瀬の山に照る月は 盈かけしけり人の常無き

1271 遠くありて雲居に見ゆる妹が家に 早く至らむ歩め黒駒

1283 梯立の倉椅川の石(いは) の橋はも 壮子時に(をざかりに) わが渡りてし石の橋はも

1411 福のいかなる人か 黒髪の白くなるまで妹が声を聞く

1412 わが背子を何処行かめと さき竹の背向(そがひ) に寝しく今し悔しも

1415 玉梓の妹は珠かも あしひきの清き山辺に蒔けば散りぬる [万葉集 巻第七]

320

135 実際は尊敬さるべき人ではないのに尊敬さるべき人であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人かれこそ実に最下の賤しい人である。

142 生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのでもない。行為によって賤し い人ともなり、行為によってバラモンともなる。

151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づか いをしっかりとたもて。

184 ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、智慧によって全 く清らかとなる。 [スッタニパータ(中村元訳、岩波文庫1984)第一 蛇の章]

321

1418 石ばしる垂水の上のさ蕨の 萌え出づる春になりにけるかも(志貴皇子)

1420 沫雪かはだれに降ると見るまでに 流らへ散るは何の花ぞも(駿河釆女)

1422 うちなびく春来るらし 山の際() の遠き木末の咲き行く見れば(尾張連)

1432 わが背子が見らむ佐保道の青柳を 手折りてだにも見むよしもがも(坂上女郎)

1433 うちのぼる佐保の川原の青柳は 今は春べとなりにけるかも(坂上女郎)

1434 霜雪もいまだ過ぎねば 思はぬに春日の里に梅の花見つ(大伴宿禰三林)

1435 かはづ鳴く神名火川に 影見えて今か咲くらむ山吹の花(厚見王)

1444 山吹の咲きたる野邊のつぼすみれ この春の雨に盛りなりけり(高田女王)

1459 世間も常にしあらねば 屋戸にある櫻の花の散れる頃かも(久米女郎)

1472 霍公鳥来鳴き響もす卯の花の 共にや来しと問はましものを(石上堅魚朝臣)

1492 君が家の花橘は成りにけり 花なる時に逢は真下のを(坂上女郎)

1494 夏山の木末の繁に 霍公鳥鳴き響むなる声の遥けさ(家持) [万葉集 巻第八]

322 Herbert’s gift was not anonymous for long, but the sense of amazement and intense pleasure that Darwin felt lasted for many, many years. “Do you remember giving me anonymously a microscope?” he wrote in 1872 to herbert, by then a grey-haired judge. “I can hardly call to mind any event in my life which surprised & gratified me more.”

 The present was the most useful scientific gift Darwin could have hoped to handle. Every free moment was now filled with exploring the miniature delights of a natural history world formerly denied to him. His last two months at university were spent studiously gazing through the new instrument.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p108-109; see p85 of Vol 2, whre Darwin sent Origin to Herbert.]

323 Meeting with this professor was rightly considered by Darwin as the one circumstance “which influenced my career more than any other.” No other man had so immediate an impact on his developing personality, nor did any other figure have so important a role in directing the course of his early scientific experiences. Darwin became Henslow’s devoted disciple and friend. henslow, in turn opened the door to Darwin’s future.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p117]

324 Darwin’s greatest gift at this time was not so much the ability to understand nature’s secrets, if he had it to any degree as an undergraduate, but a capacity to identify the people capable of giving and inspiring in him the loyal affection he desired. On such affections his ultimate success as a naturalist depended.   [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p124]

325 Whewell praised Henslow’s version of botanical science, seeing at first hand the way he encouraged students in framing generalisations and drawing up new “laws” from observations. Botany like this, he emphasised in an important essay, was ideal for including in a liberal education.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p128]

326 The Admiralty, moreover, expected Darwin to pay for himself during the expedition, and the doctor was here agreeing not only to send him around the world for two years (it eventually stretched to five) but also pay the bill.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p157]

327 “Delight,” he wrote in his journal, “is a weak term to express the feelings of a naturalist who for the first time has wandered by himself in a Brazilian forest ... such a day brings a deeper pleasure than he can ever hope to experience again.”  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p211]

328 Darwin, FitzRoy rumbled darkly in post-Beagle days, should not forget the generosity extended to him by captain and crew alike. It seems only too evident, however, that he did.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p227]

329 In practice, Lyell offered a halfway house to thinkers like Darwin who could not find the courage or see any need to abandon everything in a single swoop.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p324]

330 During his travel, he recalled, he became gradually to discredit the Old Testament as a literal source: he now saw it as a text no more to be trusted as an authoritative record of real events than the sacred books of the Hindu or “the beliefs of any barbarian.” It was correspondingly difficult to believe in divine revelation.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p325]

331 To cap it all, FitzRoy looked over Darwin’s shoulder one day and suggested his diary might be published as a description of the natural history of the voyage.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p336]

333

1755 鶯の生卵(かひご)の中に 霍公鳥独り生まれて 己(な)が父に似ては鳴かず 己が母に似ては鳴かず 卯の花の咲きたる野邊ゆ 飛びかけり来鳴き響もし 橘の花を居散らし 終日に鳴けど聞きよし 幣(まひ)はせむ 遠くな行きそ わが屋戸の花橘に 住み渡れ鳥

反歌

1756 かき霧らし雨の降る夜を 霍公鳥鳴きて行くなり あはれその鳥 [万葉集 巻第九]

334

1847 浅緑染め懸けたりと見るまでに 春の楊は萌えにけるかも

1849 山の際の雪は消ざるを 水霧らふ川の柳は萌えにけるかも

1884 冬過ぎて春し来たれば 年月は新なれども人は舊りゆく

1896 春さればしだり柳のとををにも 妹は心に乗りにけるかも

1899 春されば卯の花ぐたしわが越えし 妹が垣間は荒れにけるかも

1914 恋ひつつも今日は暮しつ 霞立つ明日の春日をいかに暮さむ

1915 わが背子に恋ひて為方(すべ)なみ春雨の降るわき知らず出でて来しかも

1923 白真弓いま春山に行く雲の 行きや別れむ恋しきものを

1925 朝戸出の君が姿をよく見ずて 長き春日を恋ひや暮さむ

1936 相思はずあるらむ児ゆゑ 玉の緒の長き春日を思ひ暮さく [万葉集 巻第十]

335 He was far more acerbic with himself in his notebooks. The only doubts he allowed during those weeks at the end of 1838 were whether his arguments for transmutation were fully effective. A hard edgesuddenly flashed: an incisiveness about the full scope of a naturalistic view of the world which cut through the thicket of compromise and self-illusion he had carefully built up over the years. Fresh from thinking about Emma’s religious beliefs, he confronted the raw bones of his theory. Did he really mean to threaten the status of human mind and mankind’s hopes for a moral meaning to life outside of lif itself? Wes the whole system of morality to go? The answer, he bravely concluded, was yes. Religious belief was merely a natural property of humanity. “Belief allied to instinct.” he wrote on a slip paper. Even better, he daringly ventured, the “love of the deiety” was a mere “effect of organization.” Emotions of terror and sublimity inevitably prompted a feeling that there was some external cause, one that primitive mankind could not help personifying and turning into a deity. “How completely men must have personified the deiety.” Malthus had given him a fierce and destructive sword: . There was little space left for divinity of moral redemption in this bleak view of life.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p398-399]

336 Alive to every penny spent, Darwin recorded each and every financial transaction that took place, however small, for the rest of his life. Obsessively detailed, cautious, and meticulous, these account books reveal more of his character than even his eventual autobiography.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p405]

337 Emma’s personality was warmly untidy, to the point where she felt obliged to reassure her aunts and sisters that her wardrobe as a married woman would not embarrass the family pride. She saw no real reason to make the maids wear lace caps and was bluntly down-to-earth about London fashions. Darwin ended up keeping his study scrupulously tidy as some consolation, as he saw it, for the over-relaxed ambience of the rest of the house.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p406]

338 Darwin started enlarging and improving his earliest pencil sketch of 1842. He wrote clearly this time, methodically and comprehensively, covering nearly 230 pages over a period of five or six months. When he finished early in July 1844 he sent the manuscript off to be copied out neatly. But he had no idea what to do with it now: it still seemed too heterodox to publish, still inadequately supported by the evidence he had spent so long collecting, still unfinished in his perfectionist eyes. Seeing it written like this almost frightened him. He wanted to publish and he did not want to publish. How could he seriously put it before the public and his friends? Turning to his papers, he wrote Emma the strangest letter of his life.

My dear Emma,

I have just finished my sketch of my species theory. If, as I believe that my theory is true & if it be accepted by one competent judge, it will be a considerable step in science. Reading between the lines was not hard. he would prefer to be dead rather than suffer the controversy which he knew would break over his head. He would prefer to be dead rather than deliberately hurt Emma’s feelings, or even worse, be the cause of her social ostracism.  [J. Browne, Charles Darwin, Voyaging (Princeton UP, 1995), p446-447]

339

1949 霍公鳥今朝の朝明に鳴きつるは 君聞きけむか朝寝か寝けむ

1950 霍公鳥花橘の枝に居て 鳴き響むれば花は散りつつ

1952 今夜のおぼつかなきに 霍公鳥鳴くなる声の音の遥けさ

1956 大和には鳴きてか来らむ 霍公鳥汝が鳴く毎に亡き人思ほゆ

1960 物思ふと寝ねぬ朝明に 霍公鳥鳴きてさ渡る為方(すべ)なきまでに [万葉集 巻第十]

340

259 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、これがこよなき幸せである。

260 適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること、これがこよなき幸せである。

261 深い学識があり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、これがこよなき幸せである。

262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、これがこよなき幸せである。

263 施与と、理法にかなった行いと親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、これがこよなき幸せである。

264 悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、これがこよなき幸せである。

265 尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な) 時に教えを聞くこと、これがこよなき幸せである。

266 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人) に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、これがこよなき幸せである。

267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ) 体得すること、これがこよなき幸せである。

268 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、これがこよなき幸せである。

269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。これがかれらにとってこよなき幸せである。 [スッタニパータ(中村元訳、岩波文庫1984)第二 小なる章]

341

311 昔は、欲と飢えと老いという三つの病があっただけであった。ところが諸々の家畜を祀りのために殺したので、九十八種の病いが起こった。[スッタニパータ(中村元訳、岩波文庫1984)第二 小なる章]

342

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の) 罪過あり或いは罪過なきこの(宗教的) 行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがいもとめることもなく、それらにとらわれずに行え。安らぎを固執することもなく。[スッタニパータ(中村元訳、岩波文庫1984)第四 八つの詩句の章]

343 First came extracts from Darwin’s sketch of 1844, then Darwin’s September 1857 letter to Asa Gray, and, at the end, Wallace.s February 1858 essay. Darwin’s priority reverberated from every page. Even Darwin winced when he saw the layout some weeks later. He had assumed that his remarks would appear as a kind of appendix or as footnotes to Wallace. Privately embarrassed, he was relieved he had not personally supervised this printed reversal of fortunes.  [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p40.]

344 For Darwin, the evening marked the end of two of the most dreadful weeks of his life. Unfairly, he began to imagine Wallace’s letter had forced him into premature publication; and he began recasting his own role in the proceedings from possible villain to potential victim.  [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p42.]

345

2141 この頃の秋の朝明けに 霧隠り妻呼ぶ雄鹿の声のさやけさ

2157 夕影に来鳴くひぐらし 幾許(ここだく) も日毎に聞けど飽かぬ声かも

2252 秋萩の咲き散る野邊の夕露に濡れつつ来ませ 夜は更けぬとも

2309 祝部(はふり) らが斎ふ社の黄葉も 標縄越えて散るといふものを [万葉集 巻第十]

346

2352 新室を踏み静む子が手玉し鳴るも 玉の如照らせる君を内にと申せ

2359 息の緒にわれは思へど人目大多みこそ 吹く風にあらばしばしば逢ふべきものを

2364 玉垂の小簾(をす) の隙(すけき) に入り通ひ来() ね たらちねの母が問はさば風と申さむ [万葉集 巻第十一]

347 In turn, Darwin knew he could depend on her good sense, her unflappable kindly nature. He was sure that she would support him, no matter what. Not it was precisely because of this that he recoiled from exposing her to the full consequences of his own bleak universe.  [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p67.]

348 According to his son Francis, Darwin was always susceptible to a pretty woman with plenty to say. When he talked to a woman who pleased and amused him, the combination of raillery and deference in his manner, said Francis, was delightful to see,  [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p72.]

349 Emma helped whenever she could. She read the Origin in full doing the proof stage and loyally tried to help her husband convey his thoughts accurately to readers. There is no evidence that Emma tried to censor his text. On the contrary, the two of them discussed awkward sentences in the evenings, until they found a form that captured what he was really trying to say.  [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p76.]

350 At that time, too, manuscripts were hardly ever corrected by staff at a publishing house. Editing was mostly carried out at home by the authors’ wives, sisters, daughters and nieces—by a roomful of readily available household experts. This feminine, home-based input has only recently been recognized as a significant factor in Victorian publishing history.  [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p76.]

351

2384 わが背子は幸く坐すと還り来むと われに告げ来む人も来ぬかも

2394 朝影にわが身はなりぬ 玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに

2489 橘の下に吾を立て下枝取り 成らむや君と問ひし君はも

2517 たらちねの母に障らば いたづらに汝(いまし) もわれも事成るべしや

2527 誰そこのわが屋戸に来喚ぶ たらちねの母に嘖はへ(ころはへ) 物思ふわれを

2540 振分けの髪を短み 青草を髪に綰くらむ妹をしそ思ふ

2545 誰そ彼と問はば答へむ為方(すべ) を無み 君が使を帰しつるかも

2570 かくのみし恋ひば死ぬべみ たらちねの母にも告げつ止まず通はせ [万葉集 巻第十一]

352 To this title Darwin attached his name—an obvious but crucial step. By putting his name to his theory, he categorically distanced his book from the anonymous Vestiges, still the most well-known evolutionary tract...  [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p81.]

353 Emma and Netty talked comfortably about their children and the usual childhood diseases, read books, and played music together. It may also have been a relief to realise that they were not alone in sharing their married lives with an intrusive third party like science.  [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p152.]

354 Hooker sadly remarked that England was the “grave of tropical orchids.” He referred to the deprevation around Rio de Janeiro, an area where Darwin had collected only thirty years before, which was subsequently stripped of all its native orchids, never to reappear.  [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p173.]

355

2627 はね蘰今する妹がうら若み 笑みみいかりみ着けし紐解く

2651 難波人葦火焚く屋の煤してあれど 己が妻こそ常めづらしき

2653 馬の音のとどともすれば 松蔭に出でてそ見つる けだし君かと [万葉集 巻第十一]

356 世間で新市場と騒がれるものも、市場の細分化、複雑か、情報化によって派生したものに過ぎないのではないか。 [赤木昭夫「エンロン(ENRON) 事件一つの時代の自壊」世界2002-12 (No708) p 158]

357 911 テロがなければ、エンロン問題はブッシュ政権をゆるがす一大政治スキャンダルに発展していただろう。 [赤木昭夫「エンロン(ENRON) 事件一つの時代の自壊」世界2002-12 (No708) p 165]

358 An innocent & good man stand under a tree & is killed by flash of lightning. Do you believe (& I really shd. like to hear) that God disignedly killed this man? Many or most persons do believe this; I can’t & don’t. — If you believe so. do you believe that when a swallow snaps up a gnat that god designed that that particular swallow shd. snap up that particular gnat at that particular instant? I believe that the man & the gnat are in the same predicament.—If the death of neither man or gnat are designed, I see no good reason to believe that their first birth or production shd. necessarily be designed.  [Correspondence 8:125 quoted in J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p177.]

359 In truth, Darwin was profoundly conditioned to become the author of a doctrine inimical to religion. [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p177.]

360 科学技術の戦略的重点化」「機動的・戦略的な組織運営」「国家としての戦略領域」「知的財産戦略大綱」「産学の連携という鉄砲に予算という弾を込める」。大学改革をめぐる政府文書や発言には、こうした軍事用語が踊っている。日本社会は「産官学総力戦」(産業構造改革・雇用対策本部「中間とりまとめ」、2001 6 26 日)の只中にあり、大学は日本の産業競争力強化の先兵となることが期待されているのである。 [小沢弘明「「構造改革」と大学その戦略と矛盾」(世界2002 Dec no708) p206]

361 このプラン(遠山プラン)が経済財政諮問会議に提出れたことからも、大学が高等教育政策の観点では なく、いまや経済政策の一環として扱われるようになったことは明瞭であろう。 [小沢弘明「「構造改革」と 大学その戦略と矛盾」(世界2002 Dec no708) p208]

362 At a stroke Darwin’s routine was transformed. Every morning and afternoon he now spent an hour or so in the new hothouse before walking around the Sandwalk. There was always something to see to, something to fire his imagination. something to plan, There he found warmth, plants, and peace. These three gods provided solace as his health deteriorated and his attention wandered from the lengthy Variation manuscript.  [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p212.]

363 From the first talk of Confederate secession until the surrender of the southern states at Appomattox Courthouse, he was intently engaged: “I never knew the newspapers so profoundly interesting.”  [J Browne, Charles Darwin: The Power of Place, (Knopf, New York, 2002), p214.]

364 What is the task of theory? It is worthwhile, when embarking on theory to have some viewpoint as to what theory is, There are different opinions on this subject. Some people feel the task of theory is to be able to calculate the results of any experiment one can do: they judge a theory successful if it agrees with experiment. That is not the way I look at a theory at all. Rather, I believe the task of theory is to try and understand the universal aspect of the natural world; first of all to identify the universal; then to clarify what they are about, and to unify and inter-relate them finally, to provide some insights into their origin and nature. Often a major step consists in finding a way of looking at things, a language for thinking about things — which need not necessarily be a calculational scheme.  [M. Fisher, Scaling, Universality and Renormalization Group Theory, Lecture Notes in Physics 186 (1983) p4]

365 パパのいうことだから、ウソだと思ってはならぬ。変な話だから、インチキだと思ってはならぬ。それが、ここでお前たちにのこしたい教訓である。 [なだいなだ「何が真実かについて」日本の名随筆41「嘘」p86]

366 テキヤさんには陰語がたくさんあるわけです。そういう、その仲間だけに通じる陰語のある世界っていうのは、僕は本物の世界じゃないかっていう気がするんですよ。はなし家さんがそうでしょう。すし屋だって、床屋だってそうでしょう。伝統が深くて、その仲間だけで閉鎖社会を作って長いこと腕をみがき上げてきた世界には、陰語ができるんですね。新劇にはないんだ。 [小沢昭一「舌耕芸香具師の場合」日本の名随筆41「嘘」p180-1]

367 Within hours after The Starry Messenger came off the press in Venice on March 12, 1610, the British ambassador there, Sir Henry Wotton, dispatched a copy home to King James I. “I send herewith unto His Majesty,” the ambassador wrote in his covering letter to the earl of Salisbury, the strangest piece of news (as I justly call it) that he hath ever yet received from any part of the world; which is the annexed book (came abroad the very day) of the Mathematical Professor of Padua . So as upon the whole subject he hath first overthrown all former astronomy—for we must have a new sphere to save the appearance—and next all astrology. For the virtue of these new planets must needs vary the judicial part, and why may there not net be more? By the next ship your Lordship shall receive from me one of the above instruments, s it is bettered by this man.

 In Prague, the highly respected Johannes Kepler, imperial astronomer to Rudolf II, read the emperor’s= copy of the book and leaped to judgment—despite the lack of a good telescope that could confirm Galileo’s findings. “I may perhaps seem rash in accepting your claims so readily with no support of my own experience,” Kepler wrote to Galileo. “But why should I not believe a most leaned mathematician, whose very style attests the soundness of his judgment?” [D Sobel, Galileo’s Daughter (Penguin Books 1999) p35-6]

368 The copy of The Starry Messenger that had the greatest impact on Galileo’s life, however, was the one he sent to Cosimo, along with his own superior telescope. The prince expressed his thanks late in the spring of 1610 by appointing Galileo “Chief Mathematician of the University of Pisa and Philosopher and Mathematician to the Grand Duke.” Galileo has specifically stipulated the addition of “Philosopher” to his title, giving himself greater prestige, but he insisted on maintaining “Mathematician” as well, for he intended to prove the importance of mathematics in natural philosophy.  [D Sobel, Galileo’s Daughter (Penguin Books 1999) p36]

369 911 の一つの意味とは、実は、アメリカの世界的覇権に対する反発であった。仮にテログループを「異常集団」だとしても、それに共感する広範なイスラム大衆の情念は、この反発に基づいている。「自由と民主主義の帝国」に対する広範な批判があるということだ。今日の「思想」とは。「自由と民主主義の帝国」に対する、たとえばイスラムやアラブの反発を組み込んだものでなければならないのである。 [佐伯啓思「イデオロギーの終焉か思想の崩壊か」中央公論2003.1 p45]

370 寝ている間に脳は起きているときと同じ量のエネルギーを消費する。つまり意識があるというのは、そのていどのことだともいえる。寝ているのとさして違わないのである。つまり寝ている間とは、脳がただ「休んでいる」時間ではない。そこでは何か、重要なことが行われているに違いないのである。 [養老孟司「まともな人」中央公論2001.1 p113]

371

2692 斯くばかり恋ひつつあらずは 朝に日に妹が履むらむ地にあらましを

2760 あしひきの山澤恵具を採みに行かむ 日だにも逢はせ 母は責むとも

2769 わが背子にわが恋ふらくは 夏草の刈り除(そ)くれども生ひ及く如し

2776 道の辺の草を冬野に履み枯らし われ立ち待つと妹に告げこそ

2807 明けぬべく千鳥数鳴く 白栲の君が手枕いまだ飽かなくに [万葉集 巻第十一]

372 オイラーの式のような、ある意味で深遠で神秘的な現象も数学には確かにあるけれども、数学がすべてそういうことだけで成り立っているとは思わない。文字の発見とか微積分の基本定理のように新しい考え方、新しい見方をした瞬間に、すごく役に立つものがでてくるという、そういうタイプの発見が実は数学の中に数多くあって、僕はそちらも強調した方がいいんじゃないかと思うんです。 [深谷賢治、[数学にとっての美と自然」(鼎談)数学の楽しみno 29 p59]

373 祝允明は枝山の号で知られる。蘇州の生まれで最初は世の大勢に従って科挙に志したが、進士までは行けず、挙人で終わった。一度広東省で知県を勤め、南京応天府の通判となったが官吏生活に嫌気がさし、任期半ばで蘇州に帰り、以後一生市隠で通した。経史に通じ、文章がうまく。書画に巧みであった。個人としてあらゆる分野に独自の見識を有したが、実際の生活には必ずしも主義に拘泥しなかった。文名が一世に高かったので、家譜碑銘の類を依頼されると潤筆料の収入が多かったが、入るそばから遊興に費やした。この種の文章は応世の文章と称して、依頼者の注文通りに書いてやった。彼の処世哲学は、馬鹿者は本気に相手になるな、ということで、こういう場合は自己の主張を曲げても恥にはならないのであった。この点においては彼の一生は言行不一致と言える。何よりも趣味を重んじた磊落不羈の生活を送ろうとすれば、天子ででもない限り、このようになるのは致し方ない。この種の隠者は前代においてはその比を見ない。恐らく明代に始まった新しい生活様式のなのであろう。 [宮崎市定「中国史下」p481]

374 What bothered me most about the book, however, is that Stott seems to have missed the point about the barnacle years. This was when Darwin really came to grips with variation in species. He knew he had to do this. He went looking for variation in nature his species theory demanded it and by golly he found it. The problem is that he overestimated it. What Darwin recognized as species are now, more often than not, classified as genera, and what he delineated as varieties are today separate species. For an accurate scientific account of Darwin and barnacles, I recommend William Newman (Crustacean Issues 8, 349-434; 1993).  [Frederick R. Schram, “The barnacle years,” bookreview of Darwin and the Barnacle by Rebecca Stott (Faber and Faber: 2003), Nature 420, 472 (2003)]

375

2855 新墾の今作る路さやかにも聞きてけるかも 妹が上のこと

2858 妹に恋ひ寝ねぬ朝に吹く風は 妹にし触ればわれさへ触れ

2866 人妻に言ふは誰が言 さ衣のこの紐解けと言ふは誰が言

2872 逢はなくも憂しと思へば いや益しに人言繁く聞え来るかも

3000 魂合はば相寝むものを 小山田の鹿猪田禁る(ししだもる)如母し守らすも

3010 佐保川の川波立たず 静けくも君に副ひて(たぐひて)明日さへもがも

3095 馬柵越しに麦食む駒の詈らゆれど なほし恋しく思ひかねつも

3149 梓弓末は知らねど愛しみ 君に副ひて(たぐひて)山道越え来ぬ

3217 荒津の海われ幣奉り斎ひてむ 早還りませ面変りせず [万葉集 巻第十二]

376 モーツァルトに忠実である〉とはどういうことを指すか。いや、モーツァルトは楽譜についてどういう考え方をもっていたか。少し音楽を考え、音楽の歴史について学んだ人ならば知っているはずである。モーツァルト(と、彼の時代の人たち)は、音楽はそのすべてを楽譜に書き表せるものではなく、また、すべきでもないと考えていたのである。 [吉田秀和「一枚のレコード」(中公文庫, 1978) p39-40]

377 私は、近年、『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』の軍記四作品は、いずれも承久の乱(1221) 後の、1230年前後からほぼ十年くらいの間に、次つぎと生み出されたのであり、それは平和な安定した時代が訪れたからであったと主張している(詳細は拙著『平家物語の誕生』岩波書店)。· · · 軍記物語は、戦争の文学でありながら、平和の産物だったのである。 [日下力「戦争と平和と文学と」(図書2003/3) p13]

378 満州派遣軍総司令官の大山巌は、総参謀長の児玉源太郎に仕事をさせた人として私の記憶に残っている。大冊の大山伝の中に、息子の回想がのっていて、彼がおそるおそる「総司令官てなにをするんですか」とたずねると「知っていることでも知らんようにきくことよ」という答が返ってきたという。 [鶴見俊輔「状況から学ぶ」(図書2003/3p41]

379 手術の巧拙とはトラブルシューティングの技能であり、さらにその上はトラブルの発生を予見し、それを如何に回避するかという能力なのだ。

 残念ながらそういった能力はやはり自分で失敗を経験しなければ身につかないものである。となると、やはり経験数、しいて言えば如何なる修羅場をくぐったかということが実力の礎になるのだろう。 [南淵明宏「執刀医の恐怖」(文芸新潮003/4p80]

380 こう考えると、九世紀を古典的国制の形成期とみることは無理であろうと思うし、また、およそ日本には「古典的国制」という概念そのものがなじまないのではないかとすら思われてくる。だから悪いとか良いというのではない。だた、経験を踏まえて原理を追求し、その原理から今度は演繹的に理想的な国制や社会の規範を公然と語るという姿勢ではなく、試行錯誤を重ねながら、その時々の眼前の課題を片づけていくという姿勢、青写真を用意してそれに合わせるように現実を変えていこうというやり方と訣別した対処のあり方で良しとする姿勢が明確に打ち出されたのが九世紀という時代であり,これはその後の日本国家の政治の体質になっていったと言えよう。 [坂上康俊「律令国家の転換と「日本」」(講談社日本の歴史05, 2001p337-8]

381 そして研究者たちは自分が「前期旧石器」を信じたのは「藤村の捏造が巧妙であったから」、あるいは「自分はお人好しすぎて人を疑うことを知らなかったから」だ、今後捏造を許さないために発掘現場では人の動きをチェックし、石器が出土する毎に証拠のビデオを撮らなければならないと述べている。しかし、問題は他者にではなく研究者自身の眼にあることは明らかである。研究者として恥ずかしいことではあろうが、石器が分からないということを認めて再出発しなければ、瓦解してしまった旧石器時代研究の再生はあり得ない。 [竹岡俊樹「旧石器捏造「神の手」だけが悪いのか」(文芸春秋、2003/5p358]

382 日本には妙な悪習慣がある。「何を青二才が」という青年蔑視と、もう一つは「若さが最高無上の価値だ」という、そのアンチテーゼとである。私はそのどちらにも与しない。小沢征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。

 たゞ、皮肉でもあり,恐ろしくもあることは、彼をあの事件で窮地へ追いやった、いやらしい日本的温情主義や、ゲマインシャフト的解決の基盤は、目に見えぬところで、今夜の美しい拍手喝采の依って来る基盤とも、つながっているかも知れないことだ。芸術家として銘記し、警戒すべきことは、まさにそれである。 [三島由紀夫(1963 1 16 日付け朝日新聞にのった前夜の「小沢征爾の音楽を聴く会」の印象記;浅利慶太「時の光の中で」第一回「小沢征爾ポイコット事件」(文芸春秋2003/5) p410]]

383 金沢文庫に伝わった品々のうち、もう一つ、日本図ともいうべき資料を紹介しておこう。· · · 国ごとに田数が書き込まれ、また筑前志賀島が大きく描かれる。モンゴル来襲がもたらした余波と言えよう。なかんずく。図全体の構図が、沿海州ないし高麗から日本列島を俯瞰する形をとっていることは、注目に値する。二世紀の後、ヨーロッパ人は、太平洋の側から見た、東アジア一帯の地図を作製するが、鎌倉時代の日本人の中には、自らのよって立つ地について、全く逆の方向感覚をもつものがいたのである。

 紀元前三世紀、モンゴル高原全域を支配権に収めた匈奴は、領土を三分して、中央部を単于が直轄し、中央アジア方面を右賢王、興安嶺東麓に左賢王を配置した。これは匈奴の視線が華北平原に向けられていたことを意味するであろう。が、十三世紀後半から十四世紀半ば、根本的な転換が生じたようである。現在の新彊ウィグル自治区は、かって「ジュンガル」と呼ばれた。「ジュンガル」は左手をあらわす蒙古語である。右賢王から「ジュンガル」へ。おそらく、この転換は、元王朝の時代に生じたのであって、漢民族の上に支配者として臨みつつ、モンゴルの人々は、いつしか北へ向かって立つようになったのではあるまいか。 [筧雅博「蒙古襲来と徳政令」(講談社、日本の歴史10, 2001p318.]

384 そもそも、漢字を用いて書かれた文は、さまざまな言語で訓読可能な、言語ではなく意味の媒体であり、多様な言語を用いる多様な集団が割拠する中国において、ローカリティを越えた統治を実現するための技術として、重要な意味をもち、それを操ることは一般の人々の平常の言語生活とは異質な、統治という作用に関わる政治的な営みであった。中国王朝が官人を採用する科挙において要求したことのひとつに、文書作成上の典拠として用いうる古典に関する知識があったが、それは単なる教養ではなく、状況に応じて適切な語句を選択して組み合わせうるという、実践的な意味を持った技術だったのである。この点が、表音文字を用いて音声言語を記録する西欧の文書技術と大きく異なるところで、このあたりの比較を試みれば面白いものになるに違いない。 [新田一郎「太平記の時代」(講談社、日本の歴史11, 2001p224-5]

385 それにしても、畿内に集住し、しかも自前の組織的な軍事力を持たない中世の荘園領主たちが、個別に見れば未進・押妨のリスクを負ったとはいえ、遠隔地の所領からの年貢をいちおうは確保していたこと、あるいは確保しうると期待しえたことは、たとえばヨーロッパ中世と比較すると驚くべきことである。ヨーロッパ中世の封建諸侯は、所領からの収入を確保するためには、原則としてその地に在り、あるいは散財する所領を経めぐって、領有を確保し耕作者を確保し経営を管理すべく、多大の努力を傾注しなければならなかった。それに対して日本中世の荘園領主たちは、所領の経営を現地勢力に委ね、現地に赴くことなどはほとんど無い。それにもかかわらず、耕作者たちは収穫の中から年貢その他の貢納物を納め、現地管理者たちはそれをはるばる京都へと送り、それぞれの立場で荘園というシステムを機能させていたのである。

 それが何故なのか、実はよくわからない。いったい何が年貢の納入を維持、そうした流通構造を支えていたのだろうか。この問題をめぐっては、さまざまな議論がありうるだろうが、さしあたり鍵になるのは「予期可能性」かもしれない。年々繰り返されるパターンを前提として、人々が動いている。それが何故か、という根拠を問うた上でのことではなく、自分と関係している、いわば身の回りの世間の人々がそれに拠って振る舞っている、という状況認識のもとで、身の回りで繰り返されている作法を前提とし、それに適合いた行動を選択することが、とりあえず日々を無為無事に過ごす手段となる。 [新田一郎「太平記の時代」(講談社、日本の歴史11, 2001p231]

386 お行儀の悪い花見酒の風習は明治二十年代、三十年代に広がったようですね。日清、日露で勝った。国の威勢があがると、風俗は下品になる。 [杉本秀太郎「高瀬川の桜」(文芸春秋特別版桜日本人の心の花、2003p21]

387

岡野 古今六帖あたりから、歌の分類の言葉がだいぶん工夫されてるんですが、桜の題の分け方はまだそれほど細かくはなっていません。八代集を経て玉葉和歌集、風雅和歌集になるとすぐれた分け方になってきます。

丸谷 確かに新古今よりも風雅の方が分類が精密ですね。

岡野 こまやかで心が行き届いている感じがしますね。風雅和歌集では「待花」「初花」「見花」「曙花」「夕花」「月花」「惜花」「落花」と分類されています。 [丸谷才一、岡野弘彦、大岡信「桜詞華集」(鼎談桜うた千年)(文芸春秋特別版桜日本人の心の花、2003p47]

388

丸谷 僕の選んだ式子内親王の、

 いま桜さきぬと見えてうすぐもり春の霞める世のけしきかな

「世のけしきかな」が気配という意味だという注をつければ、あとは読めばすべて分かる歌です。平安末期のお姫様が外へ出る自由もなく暮らしている。春になって空の曇り方から、どうも桜が咲いたらしいと察する、という物語的な歌ですね。よくできている、これくらい歌がうまければ、定家が惚れるのももっともだと思ったりしてね(笑)。[丸谷才一、岡野弘彦、大岡信「桜詞華集」(鼎談桜うた千年)(文芸春秋特別版桜日本人の心の花、2003p49]

389

岡野 「曙花」は、みなさんすっきりとした分かりやすい歌を選ばれましたね。私のは伏見院御歌。

 枝もなく咲きかさなれる花の色に梢もおもき春のあけぼの

丸谷 この「梢もおもき」がうまいんだよねえ。

岡野 うまいですね。「枝もなく咲きかさなれる」はさりげなく桜の咲き満ちたマッスをまず言って、下の句の「梢もおもき」にずっしりと重点が移って行く。[丸谷才一、岡野弘彦、大岡信「桜詞華集」(鼎談桜うた千年)(文芸春秋特別版桜日本人の心の花、2003p51]

390

丸谷 俊成さんの、

 またや見ん交野のみ野の桜がり花の雪ちる春のあけぼの

 これは絶唱でしてね。交野は皇室の狩場ですが、ほんとうは見ていないと思うのですが、自分が朝、そこで落花の景色を見ているとして詠んだのでしょう。· · · —中略

大岡 俊成はこのとき、八十二歳ですよ。大変なもんだね。

丸谷 この歌を褒められたとき、いつも謙遜している俊成が、「少しはよろしきにや」と言った(笑)。やっぱり自信あったんでしょうね。

大岡 その俊成の孫、藤原俊成女の、

 風かよふ寝覚の袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢

 これも「の」を重ねて行くんですね。それによって優艶な情緒を引き出している。影像が重なって溶け合いながら、しかし、影像ひとつひとつはピッと立っている。実に高等技術ですね。

 もう一つは、伏見院中宮だった永福門院のうたですが、

 山もとの鳥の声より明けそめて花もむらむら色ぞみえ行く

「花もむらむら」という音で、影像の重なり合いの効果が出てくるところは、うまいもんだなあと思いますね。この歌もそうですが、玉葉集や風雅集の時代になると、影像の捉え方に運動が出てきますね。 [丸谷才一、岡野弘彦、大岡信「桜詞華集」(鼎談桜うた千年)(文芸春秋特別版桜日本人の心の花、2003p51-2]391

岡野 私はここに永福門院の歌を持ってきたんですけど、

 花の上にしばしうつろふ夕づく日入るともなしに影消えにけり

 花の上のしばしの夕映え、それが息を引くように、影を消してゆく。かげは光線ですが、古くから多義性の内容を兼ねそなえていて、人間の生命や身体的なものとの連想もあります。「入るともなしに影消えにけり」という、日かげがスーッと息も絶え絶えに消えていくようなところが玉葉集、風雅集の特色ですね。

丸谷 そうですね、何か幽玄な感じがありますね。

大岡 永福門院は、この「消えていく」ところがうまいですよね。影が壁にしみ込んで消えていく歌があったでしょう。

岡野 「ま萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく」

丸谷 うまいよねえ。夕日の景色を見たら、これからはこの永福門院や伏見院の歌のとおりに見えてしまいますよ。やっぱり自然は藝術をもほうするんだなあ。 [丸谷才一、岡野弘彦、大岡信「桜詞華集」(鼎談桜うた千年)(文芸春秋特別版桜日本人の心の花、2003p52]

392

丸谷 雪月花、この三点セットが日本文学を決定したところがあると思うんですよ。「花」はこの場合、牡丹でしょう?

大岡 中国ではそうですね。日本に来て桜になった。

丸谷 牡丹の花の色は白と限らないでしょう。ところが日本に来て「花」が桜に変わった。それで雪、月、花、三つとも白くてぼーっとした美の形になったんですね。明確な、派手なものではなくて、曖昧、朦朧とした美が理想になった。「花」を牡丹から桜にした一種の「誤訳」によって、日本文化は規定された面があるわけですね。 [丸谷才一、岡野弘彦、大岡信「桜詞華集」(鼎談桜うた千年)(文芸春秋特別版桜日本人の心の花、2003p53-4]

393

大岡 · · · 明治四十一年五月号の「明星」に山川登美子の「日蔭草」という題の十四首が載っていて、そのうちの一首です。

 後世は猶今生だにも願はざるわがふところにさくら来てちる

 この歌は登美子の絶唱だと思います。死ぬ一年前に詠んだ歌ですが、すでに自分が埋葬される時を思わせる歌ですね。

丸谷 いや、これは感心しましたね。僕は一体に現代短歌の欠点はむやみに漢語を使うことだと思っているんです。でも、この「後世」「今生」の使い方は、ピタリと決まっていて、これしかない。いい歌ですね。

大岡 彼女はこのとき、二十八歳かな。こういう一首があったら、みんな「まいった」と思うんですよね。結核で死んだ人の中に優れた人がたくさんいましたけれど、その中でも登美子は特別に才能があったという気がしますね。[丸谷才一、岡野弘彦、大岡信「桜詞華集」(鼎談桜うた千年)(文芸春秋特別版桜日本人の心の花、2003p55]

394

大岡 · · ·

 散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき

 桜の名所である交野に行って、業平はそのとき「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という有名な歌を詠みました。それに応えるような形で詠まれたのがこの歌です。誰が作ったか明示されてはいませんが、惟喬親王自身かもしれません。  [丸谷才一、岡野弘彦、大岡信「桜詞華集」(鼎談桜うた千年)(文芸春秋特別版桜日本人の心の花、20036]

395 宗教的な組織施設において種々の知識が講習され伝授されるという、これはある意味でヨーロッパ中世の大学に近いものだが、しかしそこで行われていた「学」の性格には違いが見られる。たとえば禅宗寺院で行われていた儒学の講釈は、主として古典の注釈を中心とした訓詁の学によって構成されており。統合的な意味・根拠・原理への省察を欠き。世界に体系的な解釈を与える学知となってはいない。それゆえにこそ仏教との共存が可能だったのかもしれないが、いったいに中性の儒学は、俗的な世間知の源泉としてつまみ食いされた、という感が強い。

 こうしたことは、中性社会における知識が、個々具体的な現場に即した実践的知識として存在し、普遍的な原理原則へと収斂してゆく学知として体系化されなかったことに対応する。実践の現場に在る者にとって重要なのは、具体的な先例を積み重ねてゆくこと、そこから有用な方法を次々に析出させてゆくこと、である。

中略

 こうして、それぞれの場において必要とされる専門知識は、現場ごとに積み上げられ、そこから、それぞれの由緒をもった振る舞い方が措定される。そこに生じる実践的知識の現場性・秘儀性こそが、外部の素人に対する現場の玄人の優越した立場を保証するのである。  [新田一郎「太平記の時代」(講談社、日本の歴史11, 2001p254-5]]

396 このような連歌の場に充溢する連帯感と精神的高揚は一揆の心性にきわめて近いものがあった。実際、大和東山内地方の地侍たちによって結ばれた東山内一揆は毎年染田天神で開かれる連歌講を一揆の連帯性を確認しあう場としていたことが安田次郎氏によって報告されている。この時期の連歌界を武士出身者が主導していたのもうなずける話であろう。 [桜井英治「室町人の精神」(講談社、日本の歴史12, 2001p228-9]]

397 「満済准后日記」1416 年(応永2312 27 日条に義持が「御二日酔気」になったと書かれているのが、「二日酔」という言葉が文献に現れる初見ではないかと思われる。そしてこの「二日酔」という言葉は十五世紀の政治・文化を実に善く象徴している言葉でもある。足利義教が倒れたのはまさに酒席であったし、足利義量や称光天皇が命を縮めたのも元をただせば大酒が原因であった。将軍や奉行人の二日酔いで政務が滞ることも日常茶飯事であり、酔狂による突発的な自殺や喧嘩で命を落とす者も少なくなかった。一方、文化の形成ということを考えても、連歌や能、茶、立花など、この時代を代表する文芸の多くは酒宴とともに発達してきたといっても過言ではない。 [桜井英治「室町人の精神」(講談社、日本の歴史12, 2001p238-9]]

398 長禄・寛正の飢饉の三条を克明につづった「碧山日録」の記主雲泉太極は、しばしば飢餓に苦しむ民衆の対極に位置する者として花見帰りに路上で嘔吐する武士たちの姿を描いている。中略それらは飢饉の凄惨さを現代に伝える貴重な証言であると同時に、豊かさのメタファーとしての嘔吐の象徴性を余すところなく語っている。 [桜井英治「室町人の精神」(講談社、日本の歴史12, 2001p241]]

399 このような唐物ばなれの現象は、厖大な唐物コレクションを背景にそれまでつねに室町文化をリードしてきた将軍家の文化的指導力の低下を反映するものでもあった。やや唯物論的な解釈になるが、和物好みの背景には日明貿易の低迷と幕府の財政難による唐物の散逸・稀少化という事態が密接に関係していたのではないかと思われる。将軍が京都における文化・芸能の流行を支配しえた義教の時代は確実に過去のものとなりつつあった。 [桜井英治「室町人の精神」(講談社、日本の歴史12, 2001p257]]

400 だが、崩壊しかかっている幕府が栄誉を与えられるとはどういうことであろうか。

中略

下剋上によって国主となった大名がたちが一時的に栄誉を欲しがったのだという考え方も確かに成り立ちうるが、後期室町幕府で形成された武家儀礼が江戸幕府にも引き継がれ、何代にもわたる生粋の武家領主の間でも生き続けていくことを考えると、成り上がった領主たちが多かったというだけでは、説明できない。

 むしろ中世後期以降は政治的支配者であることの条件の中に、石母田正氏が言う「礼」の秩序のなかに一定の地位を占めていることが、不可欠のものとして含まれるようになっていくと言えるのではないだろうか。「礼」の秩序とは、すなわち身分的尊卑の観念を再生産していくような秩序である。戦国時代という最も実力の世界であるかにみえる時代に、まさにそのような条件が生まれるというのは、きわめて逆説的であり、皮肉なようにもみえる。しかし、実力の世界であればあるほど、無限の戦いを止めるものは、力を越えた、力によらない、権威的秩序であるという意識が、どこからか生まれてきたとも言える。  [久留島典子「一揆と戦国大名」(講談社、日本の歴史13, 2001p231-2]]

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1606 君待つとわが恋ひをれば わが屋戸の簾動かし秋の風吹く(額田王)

1607 風をだに恋ふるはともし 風をだに来むとし待たば何か嘆かむ(鏡女王) [万葉集 巻第八]