II  601-700 

クイントゥス「トロイア戦記」 種田山頭火「草木塔」  三上義夫「文化史上より見たる日本の数学」 里見「道元禅師の話』  宮崎市定「中国に学ぶ」 山之内靖「マックス・ウェーバー入門」  ゲーデル未刊哲学論稿  F クライン「19世紀の数学」 論語 懐奘「正法眼蔵随聞記」

601 もし、はっきりわかりもしないことを、さもわかっているような顔をして、人様にわからせようとするならば、これは「詐欺師同然の所業」と呼ばれたとて一言もない場合だ。 [里見惇(ただし弓偏)「道元禅師の話』(岩波文庫1994, 原著1953p20]

602 講釈師をを揶揄して川柳子いうところの「見て来たような嘘をつき」ほんの耳掻一杯ほどにもせよ、その「嘘」を加味しないことには歴史は編めず、同時に読むほうでも、その匙加減は、先刻承知の上でなければならないだろう。「読史眼」とは、書かれた事実の表面(うわべ)ばかりでなく、その裏なる、書き人(て)の真理までも窺い知る、、いわゆる「紙背に徹する」底の眼力を指して言うので、それなしに、のっそりと教壇に登るような歴史の先生が、記憶力の強制管理者以外の何ものでもなく思われても、さらに文句はないはず。 [里見惇(ただし弓偏)「道元禅師の話』(岩波文庫1994, 原著1953p23s]

603 宿命女神(アイサ)は他のいかなる神々はおろか、偉大なゼウスをも顧慮しなかった。女神の残酷な精神はいささかもかわらないのだ [クイントゥス「トロイア戦記」第11 巻獅子奮迅のアイネイアース(松田治訳、講談社学術文庫2000p347]

604

分け入つても分け入つても青い山

まつすぐな道でさみしい

木の芽草の芽あるきつづける

またみることもない山が遠ざかる

捨てきれない荷物のおもさまへうしろ

まつたく雲がない笠をぬぎ

墓がならんでそこまで波がおしよせて

物乞ふ家もなくなり山には雲

うしろすがたのしぐれてゆくか

朝凪の島を二つおく(呼子港)

ふるさとは遠くして木の芽

朝からの騒音へ長い橋かかる

       ー鉢の子ー

もう明けさうな窓明けて青葉       ー其中一人ー [種田山頭火「草木塔」]

605 和算家の使用した推理の仕方には帰納的のものがはなはだ多い。

─中略─

 建部賢弘の『不休綴術』は種々の算法について数が三である場合には云々、四である場合には云々、五である場合には云々、従ってそれから推して一般に云々の仕方をとるべきものであるというように考えて、帰納的に算法の説明を試みたもので、いわば建部が理想とせる数学的推理の方法を教えた教科書であり、方法論の著述であるとも見られる。

─中略─

 零約術というのは連分数であるが、これを説く仕方を見ても、やはり同様な精神が見える。初めに数字上の値をだしておいて、その値を処理して公式を作って行く。初めに幼稚であったときの遣り方もそうであるし、連分数の考えが整うたころにもやはりそうであり、ずっと後にこれと関連して面白い公式が案出されるころになってもやはりそうであった。

─中略─

ここに極めて日本的のものがあることを認められるのである。

─中略─

 かくのごとく数字上の値からその成立の法則を推したり、特殊の場合若干を考えそれから一般の場合を得たり、概値から出発して次第に精密になるようにして見たり、こんな手段を賞用したのは実に著しいことであって、ここに和算の一つの特色が現れているのである。 [三上義夫「文化史上より見たる日本の数学」(佐々木力編 岩波文庫1999p89-92]

606 和算家は問題の解義には力めたが、証明ということは全く企てないということはないけれど、証明という精神があまり鋭敏なものではなく、証明の厳密を期することをしておらぬは、前節に論じた通りである。従って過誤を犯したことも珍しくなかった。

 かくのごときは決して数学の上にのみ現れたことではなかった。全く日本人の性格からきたことである。─中略─哲学倫理も論理的に組織されず、論理学の成立しなかったのは最も著しい。

─中略─

 日本人の論理思想をもってして、日本の数学が証明の精神に欠如するところがあり、過誤の少なくなかったというのはもとより当然のことであって、それにもかかわらずあれだけの結果を得たのは、芸術的気分に支配されたことがあずかって力なきものでもなかったであろう。[三上義夫「文化史上より見たる日本の数学」(佐々木力編 岩波文庫1999p97-9]

607 すでに、深刻独創的の哲学がないところに、数学そのものも学理的というよりは、法であり、術であり、技能であったからには、数学上の観念も深刻透徹のものが発現しようはずもなく、円理のごとき術理は成立しながらも、いたずらにこれが運用に長ずるばかりで、西洋の微積分学のような組織あるものにならなかったのは、やむを得ざる勢いであった。 [三上義夫「文化史上より見たる日本の数学」(佐々木力編 岩波文庫1999p117]

608

松風すずしく人も食べ馬も食べ

けふもいちにち風をあるいてきた

何が何やらみんな咲いている

あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ

ここにふたたび花いばら散っている

       ー行乞途上ー [種田山頭火「草木塔」]

609

  山あれば山を観る

  雨の日は雨を聴く

  春夏秋冬

  あしたもよろし

  ゆふべもよろし

なんといふ空がなごやかな柚子の二つ三つ

山行水行

たたずめば風わたる空のとほくとほく

柿の葉

 焼き場水たまり雲をうつして寒く

死はひややかな空とほく雲のゆく

死のしづけさは晴れて葉のない木

孤寒

   老遍路

死ねない手がふる鈴をふる

             [種田山頭火「草木塔」]

607 日本の小説家には、「自分を表現する」ことをめざす人はいても、自分が神になったつもりで芸術作品を創造しようとした人はきわめて少ない。自己表現ということは、それを理解し、評価してくれる他人や世間を想定してはじめて意味をもつもので、それは結局のところ、書くことを通じて他人や世間との間に何らかの関係を築こうとするものにすぎない。これに対して、芸術作品を創造する人間は、自分が満足できるものを作ればよいので、他人や世間のことなど眼中にない。だから創造が終われば、その作品やノートなどは破棄してもよいということになる。 [竹内靖雄「世界名作の経済倫理学」(PHP 新書010, 1997)p5]

608 「不惜身命」という語も、意気として壮なるものは認めるけれど、わが身の使命を実感し、随ってそれを大事にかけて保存しつつ、必ず最上の点までもって行こうと念願するならば、その精神を容れ保っている肉体を酷使して顧ない、などということは、矛盾とも不合理とも、評語に窮するほどの阿呆らしさだ。禅師の場合は、釈尊によって説かれた法の真髄をわが国にもち帰り、一箇半箇でもいいから、ほんとうにわかる人に伝えたい、..... 大雑把に言えばそういう念願だが、立派にもうそれは、..... 内輪に見積もってもその大部分は果たしてしまったのだから、五十四歳という世寿も、決して短くなかったわけだけれど、それにしても、日ごろ無理を嫌う私に遠慮のないところを言わせてもらえば、英語でいう「オーヴァ・ワーク」つまりは、みずから揣らざるの不明が祟っての早世だと看る。「不惜身命」や、「臀肉乱壊」するまでの打座など、意気として、また、体力線が絶頂にある数年間ならば、まだしも実地に行うことも結構だし、また結果においても、発病したり、命に関わるほどのこともなかろうけれど、しかし、概して、口に事業への熱意を唱えながら、からだを粗末に扱う人を見ると、私には「無理の限度を知らぬ不明の人物」という印象が植え付けられる。 [里見惇(ただし弓偏)「道元禅師の話』(岩波文庫1994, 原著1953p278-9]

609 マックスは生物学の問題を物理学的観点から「見た」だけでなく実際に「取り組んだ」。彼は生体のより高次に組織された系から取り組み始めることはなかった。マックスはパウリの批判にもかかわらずこの立場を守り続けた。ワイスコフへの1958年の手紙にあるように、パウリから見ると、マックスの「心情的」な相補性への関心は、彼が生命を単なる「複雑な波動関数」と考えるのが死ぬほど嫌だったからなのである。[分子生物学の誕生マックス・デルブリュックの生涯」石館三枝子、石館康平訳(朝日新聞社1993p303(原著E. P. Fischer and C. Lipson, Thinking about science, Max Delbr¨uck and the origins of molecular biology (W. W. Norton & Co, Inc., 1988).]

610 1922年、歴史学研究の志を抱いて上洛し、京都大学文学部に入学してから数えて、早くも50年目を迎えた。人力車にゆられて人通りの少ない早朝の京都市内を通り抜け、鹿ヶ谷ぞいの浄土寺なる下宿にはじめて到着したのは、何やら昨日今日の出来事のように感ぜられる。その後、下宿をうつし、寓居をかえ、外国に往復し、軍役に奔走させられ、学業を治め、学生に講義し、気がついてわが身をふりかえれば、目下の寓居は50年前の下宿と目睫の間にある。わずか100メートルほどの土地を動いてここへ辿りつくだけのことに、かくも長い歳月を要したかと、自ら顧みて苦笑を禁じ得ない。 [宮崎市定「中国に学ぶ』(中公文庫1986)はしがき p11]

611 『史記』は後世から「通史」の見本とされているが、その取り扱う時代は、人間の到達しうる最も古い五帝の時代から、司馬遷自身の生存している武帝の時代までの全時代を取り扱う。同時にこの書は空間的にも、およそ当時の人が聞知しうる極限のはて、西アジア地方の事情までも記述の対象として取り上げる。また自然科学上の知識、たとえば暦学の記述もあり。別に音楽の知識、経済学の知識をも含む。。しかし彼が最も興味を感じたのは、人間の生き方であった。彼は一個の庶民として、あらゆる種類の人間の生活様式に、深い理解と暖かい同情とを示す。博徒としての遊侠や、暗殺者としての刺客や、金儲けに成功した貨殖家や、あるいは占い師、人相見に至るまで、それぞれの生き方にそれぞれの意義を見出すのである。このような人物の特殊な行為はそのまま忘却に任せてはならない、必ず後世に伝えて保存する義務があると彼は責任を感じた。そこで彼は、稀に見る情熱の書、『史記』百三十巻を著したのであった。 [宮崎市定「中国に学ぶ』(中公文庫1986)中国人の歴史観 p22]

612 章学誠もそのようにして地方大官に召し抱えられて、地方誌編纂で渡世する学者の一人であった。しかし、良心的な彼は、地方誌編纂を単に衣食の資として等閑視することなく、地方誌の真の目的は何であるべきかを真剣に考えぬいたのであった。 [宮崎市定「中国に学ぶ』(中公文庫1986)中国人の歴史観 p32]

613 事実、自らが所有して書斎の中で鑑賞するのが最も適当な鑑賞法であるはずだ。画は本来そのように制作されているからだ。今日、展覧会場など、雑踏の間で、ガラス越しに拝見するのは、実は窮余の一策にすぎない。展覧会でしか画を見ないと、展覧会用の画しか描けなくなる。普及、大衆化は大切なことには違いないが、しかしそれで本来の使命を無視していいことにはならない。─中略─芸術とは本来贅沢なものである。 [宮崎市定「中国に学ぶ』(中公文庫1986)玩物喪志 p47]

614 もし日本の面積が倍ほども大きかったとしたならば、秀吉は、もう一人の自分くらいの人間にうちかたなければ天下がとれなかっただろう。ふたりの秀吉は、初めは同じくらいの力量でも、そのうちのひとりが、他のひとりをうち負かすことによって自信を得、またひとまわりスケールが大きくなれるのである。ところが実在の秀吉は、天王山や賤ヶ岳の戦いに勝ってしまうと、もうあとは、ずるずると天下が向こうの方から、ひとりでに懐にころがりこんでしまい、秀吉の人物の成長もそこで止まってしまったのである。朝鮮戦役もかれのそうした慢心から出たものにほかならない。 [宮崎市定「中国に学ぶ』(中公文庫1986)中国の人物と日本の人物 p110]

615 広く一切の科学と同様、すべての理解は、「明確性」を求める。理解における明確性は、二つの種類があって、合理的なもの(これも、論理的か数学的かに分かれる)か、それとも、感情移入による追体験的のもの、すなわち、エモーショナルな、芸術鑑賞的なものかである。 [M. ヴェーバー「社会学の根本概念」(清水幾太郎訳、1972 岩波文庫)p10]

616 正しい順序で哲学しなかった人々が、別の見方をした理由は、ほかでもない彼らが、決して精神を物体(身体)から充分正確に区別しなかったからである。たとい彼らが他の何よりも、自己の存在することを確実だと信じていたとしても、その自己をばここでは、単に精神とのみ解すべきだとは気付かないで、反対にむしろ、眼で見たり手で触れたり、そして誤って感覚する力までも認められた自分の身体だけを、理解していたのであって、このことが彼らを精神の本性を知ることから遠ざけていたのである。 [デカルト「哲学原理」第一部12 桂寿一訳 (岩波文庫、1964]

617 被造物神化の拒否は、こうして感覚文化の拒否に突き進んでいきます。その反面、感覚性とかけ離れた領域については、むしろ積極的に押し進めていく。数学や物理学は、この時期に、プロテスタンティズムの影響のもとで非常に発展しました。ニュートンによる「自然哲学の数学的原理」(1687)は、そうした時代状況の中から生まれました。 [山之内靖「マックス・ウェーバー入門」(岩波新書503, 1997p88]

618 宗教改革がもった意味は、修道院という世俗から切り離された特別な空間の中で行われていた禁欲的で合理的な労働を、日常の職業労働という場の中に解放し、引き入れたという点であった。 [山之内靖「マックス・ウェーバー入門」(岩波新書503, 1997p94]

619 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の末尾の言葉「精神なき専門人、心情なき享楽人」としての現代人に投げかけられた深刻な問いの言葉も,実は、その起源としての禁欲的プロテスタンティズムそのものに対する問いの言葉であったと言わねばならないでしょう。 [山之内靖「マックス・ウェーバー入門」(岩波新書503, 1997p96]

620 このように、運命概念の成立は、神の世界に対する人間の世界の対置という一点に収斂していくことがわかりますが、しかし、この対置は、ヴェーバーにおいては、神の死滅はすなわち人間の勝利を意味するなどといった、啓蒙主義的色彩を帯びるべきものではまったくなく、ほの暗い情念の力の噴出がもたらす、本源的に不確実な世界の現出を意味するものでした。この不確実の世界を避けようとするのではなく、それがもつ恐るべき結末と暗闇に敢えて挑戦する。そこにこそ人間の生の尊厳が宿されていると、ヴェーバーは考えはじめているのです。 [山之内靖「マックス・ウェーバー入門」(岩波新書503, 1997p134-5]

621 信長の征服戦をあらためて見てみると、武将たちの活躍もさることながら、主君の本陣を固めた馬廻たちがすばらしい働きをしていることに気が付く。彼ら馬廻や小姓たちは、信長が一から育てた親衛隊なのである。 信長の施策が比較的スムーズに運んだのは、有能で労を惜しまぬ側近が大勢いたからこそである。[谷口克広「信長の親衛隊」(中公新書、1998) ii]

622 山田山には、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、蜂屋頼隆、羽柴秀吉、丹羽長秀らが布陣している。信長はすぐさま彼ら諸将に命令を伝えた。

 「13日夜、夜陰ににまぎれて、朝倉軍は退却する。それを見たならば、すぐに追撃せよ」

 信長は、敵の総大将朝倉義景が乾坤一擲の勝負の出来ない男であることを知っている。小谷救援の足掛かりの場さえも奪われてしまったなら、越前に引き返す以外ない、と読んでいた。しかし、この信長の命令に対し、各将たちは半信半疑だったのである。

 信長の予測は当たった。まさに13日の深夜、余呉近辺に陣を張っていた朝倉軍が動き出したのである。しかし、もともと半信半疑だった織田軍諸将は、この朝倉軍の動きを見逃してしまった。

 信長は苛立った。だがこの絶好のチャンスを見逃す手はない。馬廻ばかりを率いて、自ら追撃に走ったのである。[谷口克広「信長の親衛隊」(中公新書、1998) P80-81]

623 ラッセルにとって、「論理主義」の方法は、基本的に他の科学に適用されたものと同じである。それ故、それは可謬性と不確定性、帰納と演繹の混合、しかも観察による一致の手段による、その原理の確認により特徴づけられる。この方法の目的は、決して直観を排除することではなく、直観的に確認された無矛盾の結果を導き得る一般法則を私たちが認めるまで、直観を洗練することである。 [ロドリゲス-コンスエグラ編「ゲーデル未刊哲学論稿」好田順治訳(青土社、1997; 原著1995p93]

624 ヒルベルトは、彼の形式的接近法は実在と関係がなかったと何年も宣伝していたにもかかわらず、彼ですら、彼の数学の哲学の大部分は、物理学と数学との類似に基礎を持っていたと言われ得るのだ。ヒルベルトにとって、数学的命題は二つのクラスにわけられる。すなわち、有限を取り扱う実在の命題と、無[ロドリゲス-コンスエグラ編「ゲーデル未刊哲学論稿」好田順治訳(青土社、1997; 原著1995p102]

625 数学的真理と証明可能性は、非常に異なるものであることを証明してしまうことで、すなわち後者は、もはや前者の分析として示され得ないと言う意味で、同じ体系で証明不可能の命題の真理性は、直接的な証明以外の手段によって決められるべきより直感的なものになる。 [ロドリゲス-コンスエグラ編「ゲーデル未刊哲学論稿」好田順治訳(青土社、1997; 原著1995p105]

626 ヒルベルトによれば、無矛盾性とは、ともかく数学においては、直観抜きで済ませることを許す特別の判定基準を持つことを意味する存在と、同値である。このように、数学的に「観察可能」なものを越えて進む、数学的実体の存在を私たちが信ずるということは、まさに形式的無矛盾性の問題となろうし、一方、経験科学においては、問題にする実体の存在は常に観察と理論の双方によっているだろう。関心を引く数学的理論の無矛盾性は決定不可能であると証明したゲーデル以後、状況は双方の科学にとっても同様である。すなわち、現在の数学は直観(観察と同じく抽象的なもの)に頼らねばならないし、またやはり数学的対象という私たちの「知識」の源泉のための理論にも頼らねばならないのだ。 [ロドリゲス-コンスエグラ編「ゲーデル未刊哲学論稿」好田順治訳(青土社、1997; 原著1995p106]

627 タルスキーは、「論理的そして数学的諸真理は、それらの起源において、経験的真理と異なってはいない両者とも集積された経験の結果である」ことを信ずる傾向があると書いた。タルスキーの例は、「p あるいは非p」であったし、それは彼によれば、その中において真である数々の特殊な場合からの一般化であったに違いない。しかしながら、この問題は何らかの哲学的性質を欠いているのでむしろ科学の歴史に属すると、結局彼は言う。 [ロドリゲス-コンスエグラ編「ゲーデル未刊哲学論稿」好田順治訳(青土社、1997; 原著1995p110]

628 ゲーデルは、集合論の対象が感覚的経験からはなれているにも拘わらず、それらに私たちを接近させる感覚認識に似た能力として存在する、数学的直観の存在を擁護し続ける。その論議は、単に「諸公理は真なる存在として私たちに押しかけてくる」(CW2 p268)という主張である。 [ロドリゲス-コンスエグラ編「ゲーデル未刊哲学論稿」好田順治訳(青土社、1997; 原著1995p119]

629 エルミートはかって次のような文章を書いた。「思い違いでなければ、まさに物理的実在の世界が存在するように、私たちがそれに知性でのみ近づける数学的真理の全体からなっている、全き世界が存在する。どちらも私達とは独立している、神の二つの創造物である。」 [ロドリゲス-コンスエグラ編「ゲーデル未刊哲学論稿」好田順治訳(青土社、1997; 原著1995p181]

630 悪疫の流行、罹病の恐怖は、集住化しつつある町や村にとって深刻な問題である。そしてそれを免れるための疫神への信仰というものが起こってくるのは当然の成行きである。林田雅至氏によればキリスト教社会でも、セント・ロックやセント・セバスチャンなどの信仰になって現れてくるそうである。したがって疫神から疫病除災神になった祇園信仰は全国津々浦々・村々町々に勧請されていった。しかし、この神輿渡御と山鉾巡行の並行という祭礼形式は、それほど顕著には見られない。これは古代からの平安京という首都であり、貴族層の集住地である政治情勢が大きく作用している。その中で、住民が主体性を発揮した祭り形式であり、都市としての京都の歴史発展のあり方に規定されているのである。京都における祇園御霊会の展開を見ることは、すなわちもう一つの都市史を見ることなのである。 [脇田晴子「中世京都と祇園祭疫神と都市の生活」(中公新書、1999piv]

631 効率と公正(または平等)は両立しえないといわれる。たしかに市場にゆだねておくだけでは、効率と公正を両立させることは望みえない。しかしながら。公正(または平等)という価値の意味所得格差を縮めることが平等化であるという在来型の平等観をみなおし、経済政策の質的深化を計ることにより、従来は両立しえなかった二つの価値を両立させるための政策を立案することは、「社会の医者」としての経済学者に課せられた重大な責務のはずである。 [佐和隆光「市場主義の終焉日本経済をどうするのか(岩波新書,2000p30]

632 実証されてはいないし、されそうもない命題が、なぜ当然のことのように横行闊歩するのだろうか。一つには、そうした言説を口や筆にするエコノミストや経営者のほとんどだれもが「強者」であるため、みずからを利する「強者の論理」があたかも不滅の真理であるかのように、まことしやかに喧伝するからである。─中略─弱者の声をあえて代弁しようとする論者が昨今の日本の経済論壇にはなぜか皆無に近いからである。 [佐和隆光「市場主義の終焉日本経済をどうするのか(岩波新書,2000p32]

633 将来の数学者にとって、社会的環境は少なくとも、彼にほんとうの証明の存在することを示し、彼の好奇心を目覚めさせ、さらにひき続いて彼がそれについて解説してある書物を手にとりさえすればその時代の数学を学び始めることを可能にする、そうした初等教育が受けられるようなものでなければならない。 [J.デュドネ編「数学史1700-1900I 上野健爾、金子晃、浪川幸彦、森田康夫、山下純一訳,(岩波1985p2]

634 数学の才能は多く16歳ごろに目覚める。しかし教育が証明の概念を教えない場合はそれより遅くなる。上に述べたアメリカの場合(=20世紀以前のアメリカのように、実用性のみが重んじられている場合)がそうであった。 [J. デュドネ編「数学史1700-1900I 上野健爾、金子晃、浪川幸彦、森田康夫、山下純一訳,(岩波1985p3]

635 数学で見られる現象の深い理解は、大抵の場合、より一般的な枠組の中へその現象をうまくはめ込むことによってえられる。 [J. デュドネ編「数学史1700-1900I 上野健爾、金子晃、浪川幸彦、森田康夫、山下純一訳,(岩波1985p14]

636 ただ抽象化と一般化のみが、余りに特別な状況下の偶然的な現象それらはしばしばその本当の性質を覆いかくしてしまうを実際に消し去ることができるのである。 [J. デュドネ編「数学史1700-1900I 上野健爾、金子晃、浪川幸彦、森田康夫、山下純一訳,(岩波1985p15]

637 私の書類の中には多くのものがあって、それらに関しあるいは発表の先取権をうしなうかもしれぬ;それでも私は敢えてこれらのものを十分熟させることの方を選ぶ。 [F ガウス、1812 1 30 日付のLaplaceへの手紙]

638 こうして、教育目的で書かれたこの本において(数学者の教育に対する義務が基礎研究の新たな隆盛へのきっかけの一つであったことをわれわれは以下に見るが)、Cauchy ははっきりと彼が到達しようとする目標を述べている。 [J. デュドネ編「数学史1700-1900II 上野健爾、金子晃、浪川幸彦、森田康夫、山下純一訳,(岩波1985p392]

639 正整数n に対して0 = 1 2n + 3n 4n + · · · と主張するより恐ろしいことを何か他に考えつくだろうか? [N H Abel 1826 1 16 日付けの手紙]

640 アリストテレスは、その当時の数学の動きとつねに接触を保とうとして大きな努力をしたようには、全く見えない人で数学からの引用にしても、すでにずっと前に常識化していたような結果に限られている。なお、この間のずれはそれ以後今日までの大多数の哲学者においては強まる一方で、彼らの大部分は専門上の予備知識を欠いているものだから、当人は本気で、数学のことを万事わきまえてものを言っているつもりらしいのだが、本当は数学の発展の中ですでに超えられてしまった過去の段階を頼りにしているだけ、というようなことになっているのである。 [ブルバキ「数学史」(村田全、清水達夫訳、東京図書1970; 原書Hermann1969]

641 しかし、この分野の考察をはじめる前にひとりの人物を思いだしておきたい。その人こそ、自身は数学者ではないが、当時のわが国における精密科学の発展にとってきわめて重要な人物:アレクサンダー・フォン・フンボルトである。─中略─フンボルト自身は、今日でいうなら地理学者であり、生物学者であった。そういうわけで、精密科学ではなく記述科学にもっぱら関心をもっていた。彼はしかし、自分の学問とはかけ離れた分野を完全には理解できなくても、その重要性を認識することはできるという類いまれな資質を備えていた。それどころか、一般的理解と時代の要求に対する的確な感覚に導かれて、自分と無関係な学問に実りある刺激を与えたことも珍しくなかった。この特質に関連して、若い前途有為な人材を、彼らが実際の業績を上げる以前にすら、確かな本能で識別できるという能力も備えていた。─中略─フンボルトは、1824 年に21歳のリービッヒをギーセン大学へ、1827 年には23歳のディリクレをブレスラウ大学へ、ともに教授団の猛烈な反対を押し切って送り込んだ。フンボルトはガウスをもプロイセンに招致したいと考えた。─中略─ガウスは申し出を受けなかった。ようやく1828 年のベルリン自然科学者大会で、フンボルトは個人的に招待したガウスと会うことができた。次第に終生変わらぬ友情に発展したこの交際が学問的に重要なのは、何といってもフンボルトがガウスに地磁気の問題に取り組むように最初の刺激を与えた点にある。 [F クライン「19世紀の数学」(彌永昌吉監修、足立恒雄、浪川幸彦監訳、石井省吾、渡辺弘訳(共立1995p17-8(F Klein, Vorlesungen ¨uber die Entwicklung der Mathematik im 19. Jahrhundert I (Springer 1926))]

642 ガウスが解決されている問題に多くの精力を注ぎ、すでに克服されて学問的常識となっている難問を、誰の指導も援助も受けずにすべてもう一度克服しなければならなかったというので、中には遺憾に思う向きもあるであろう。こうした意見に対して、むしろ私は断固として自発性を称揚したい。この実例から、個人の実りある進歩のためには、能力の開発に比べれば、知識の獲得など、取るに足りない問題であるという教育上の教訓を学ぶことができる。[F クライン「19世紀の数学」(彌永昌吉監修、足立恒雄、浪川幸彦監訳、石井省吾、渡辺弘訳(共立1995p34-5 ]

643 ガウスは終始非ユークリッド幾何学を、唯名論者風に、単なる思考上の遊戯とは解していなかった。また、ユークリッド幾何学は絶対的真理ではないにしても、天文学的なものまで含めたわれわれの環境に対して満足できる近似になっているという実用主義的解釈も、ガウスは全然とらなかった。彼の立場は、むしろ純然と経験主義的であった。彼にとっては、空間はわれわれの外部に存在していて、研究に価する確固たる特性を備えているのである。いかなる幾何学が「実際に」存在し、したがって正しいものであるのかという問題は。実験によって決定されるべきである。ガウスはこれに類することを1817 年にオルバースに述べている。ここでガウスは、数論だけに先験的真理を認め、一方、幾何学は経験科学として、力学と同じ水準においている。 [F クライン「19世紀の数学」(彌永昌吉監修、足立恒雄、浪川幸彦監訳、石井省吾、渡辺弘訳(共立1995p58 ]

644 “第一原因は不可知である;しかしながらそれらは単純かつ普遍の諸法則に従うもので、これを人は観察によって発見することができる。この諸法則の研究が自然哲学の目的である。 この文章はフーリエの自然に対する純粋に現象論的な見方をはっきり表している。 [F クライン「19世紀の数学」(彌永昌吉監修、足立恒雄、浪川幸彦監訳、石井省吾、渡辺弘訳(共立1995p69 ]

645 フーリエの場合、自然から提起された実際的な大問題に自分の方法を適用して、役立てるという考えが、あらゆる創造の内的動機であったのに対し、後にはこの絶えず洗練されていく数学的手段に対する、抽象的で純粋な関数論的な興味のほうが優位にたっていった。比喩が許されるならば、私には今日の数学は平和時における大きな兵器店のように思われる。ショーウィンドウには豪華な製品が満ちていて、その工夫に富み、精巧で、目にも綾できばえは玄人筋を魅了する。敵を攻撃し打ち負かすという、これら製品の本来の起源と目的は、意識のはるか後方に退いて、ほぼ忘れ去られている。 [F クライン「19世紀の数学」(彌永昌吉監修、足立恒雄、浪川幸彦監訳、石井省吾、渡辺弘訳(共立1995p71 ]

646 ディリクレはフェリックス・メンデルスゾーンの妹のひとりレベッカと結婚し、裕福で才気に満ちたメンデルスゾーン家と縁を結んだのである。─中略─ディリクレは自分の家で開かれる社交的催しにはいつも言葉少なに、遠慮がちに参加したといわれている。彼の周辺でまばゆいばかりの知性がたてる絶え間のないさざ波は、もっと深いところで波打つディリクレの理知の大きなうねりとは、恐らく全然噛み合わなかったのであろう。ディリクレの近親者の一人が、1905 年の記念祭の折り、このような見方を是認してくれ、さらに、今度ばかりはディリクレが個人的に真価を認めてもらうことができて自分はことのほか嬉しい、とこの女性は付け加えた;この一族で彼が評価されるのはいつも事のついでに限られていたからである。こういうわけで現在ドイツ社会に欠けているように思われることは当時も覚束なかったことが分かる;それは、精密科学的要素を、独自で自明な構成要素として包含する、統一的な文化的雰囲気の形成である。 [F クライン「19世紀の数学」(彌永昌吉監修、足立恒雄、浪川幸彦監訳、石井省吾、渡辺弘訳(共立1995p101-2 ]

647 子曰く、已んぬるかな、吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。 [論語 第十五 衛霊公篇 十三]

648 子曰く、義を以て質となし、礼を以て之を行い、孫を以て之を出し、信を以て之を成す。君子なる哉。 [論語 第十五 衛霊公篇 十八]

649 子曰く、君子は能なきを病(うれ)う。人の己を知らざるを病えざるなり。 [論語 第十五 衛霊公篇十九]

650 子曰く、君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む。 [論語 第十五 衛霊公篇 二一]

651 子曰く、君子は矜にして争わず、群するも党せず。 [論語 第十五 衛霊公篇 二二]

652 子曰く、君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃てず。 [論語 第十五 衛霊公篇 二三]

652 子貢問いて曰く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者ありや。子曰く、それ恕か、己の欲せざる所を人に施すこと勿かれ。 [論語 第十五 衛霊公篇 二四]

653 子曰く、巧言は徳を乱る。小、忍ばざれば、則ち、大謀を乱る。 [論語 第十五 衛霊公篇 二七]

654 子曰く、衆之を悪むも必ず察し、衆之を好むも必ず察す。 [論語 第十五 衛霊公篇 二八]

655 子曰く、過ちて改めざる、是を過ちと謂う。 [論語 第十五 衛霊公篇 三十]

656 子曰く、吾嘗て終日食らわず、終夜寝ずして思うも益なし。学ぶに如かず。 [論語 第十五 衛霊公篇三一]

657 子曰く、君子は道を謀りて食を謀らず。耕して餒えその中に在り。学びて碌その中に在り。君子は道を憂えて貧を憂えず。 [論語 第十五 衛霊公篇 三二]

658 日本語が漢字に出会ったことの意味は大きかった。それは、今まで書き留めることのできなかった日本語が、これで書き留めうるようになった、という理由からではない。むしろ逆に、いくら漢字を用いても、ついに日本語を書き留めることはできない、という自覚がそこに生まれたにちがいない、と思われる。 [渡辺実「平安朝文章史」第一節 かな文の出で来はじめ竹取物語 (ちくま学芸文庫p009 〔筑摩書房2000、原著1981]

659 仏像舎利は如来の遺像遺骨なれば恭敬すべしと云へども、また偏に是を仰ぎて得悟すべしと思はば還って邪見なり。天魔毒蛇の所領となる因縁なり。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第一1 p17(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

660 戒行持斎を守護すべければとて、強いて宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり。只是れ衲僧の行履、仏子の家風なれば、随ひ行ふなり。是を能事(よきこと)と云へばとて、必ずしも宗とする事なかれ。然あればとて破戒放逸なれと云うには非ず。若亦かの如く執せば邪見なり、外道なり。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第一2 p18(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

661 孔子曰く、益者三友、損者三友。直を友とし、諒(=誠)を友とし、多聞を友とするは益なり。便辟(体裁のいいこと)を友とし、善柔を友とし、便佞を友とするは、損なり。 [論語 第十六 李氏篇 四]

662 孔子曰く、益者三楽、損者三楽。礼楽を節するを楽しみ、人の善を道うを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽を楽しみ、逸遊を楽しみ、宴楽を楽しむは、損なり。 [論語 第十六 李氏篇 五]

663 個人主義的社会分析の主張とは次のようなものなのである。すなわち我々は諸個人の行為が結合して生み出す結果を追跡することによって、人間の達成した偉業の土台をなす多くの制度が、設計し指令する知性によることなしに、生起し、機能しているという発見に到達するということである。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p11 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

The next step in the individualistic analysis of society, however, is directed against the rationalistic pseudoindividualism which also leads to practical collectivism. It is the contention that, by tracing the combined effects of individual actions, we discover that many of the institutions on which human achievement rest have arisen and are functioning without a designing and directing mind; [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p6]

664 今日ほとんどすべての研究の基盤が有期限型プロジェクトによって成り立ち、現場は当然スクラップアンドビルドを繰り返す。わが国の研究体制のこの点での標準化は、知的遺産を組織的に継承することを不可能にしてしまった。 [遠藤秀紀、山際大志郎「解剖学、パンダの親指を語る継承型科学の挑戦科学70(9),p737 (2000).]

665 継承性を捨てた生物学は、謎を秘めた動物遺体を前にしても、それを生ゴミと認識する道を選ぶのだ。スラップアンドビルドを学術政策の唯一の拠り所とするならば、わが国はインパクトファクターを出力するために、あらゆる学術資産をゴミ同然に捨てる国となろう。 [遠藤秀紀、山際大志郎「解剖学、パンダの親指を語る継承型科学の挑戦科学70(9), p739 (2000).]

666 学校優等生、残虐をきわめた内務班リンチのリーダー、そして戦後日本企業の優良社員、一見したところ別の社会カテゴリーに属するかにみえるこの三者は、近代日本の社会体系のなかで奇妙にだぶってあぶり出されてくる。 [中内敏夫「軍国美談と教科書」p58 (岩波新書、1988]

667 日中戦争から西欧列強相手の世界大戦へと入っていった軍国日本は、最後には、「知育偏重」批判論と「行の教育」の名の下に、中学生・女学生や小学生までをも戦争の渦中にひきこんだ。 [中内敏夫「軍国美談と教科書」p157 (岩波新書、1988]

668 孔子曰く、君子に侍するに三愆(けん=過ち)あり。言未だこれに及ばずして而も言う、之を躁と謂う。言これに及んで而も言わざる、之を隠と謂う。未だ顔色を見ずして而も言う、これを瞽と謂う。 [論語 第十六 李氏篇 六]

669 孔子曰く、君子に三戒あり。少時は血気未だ定まらず、之を戒むること色に在り。其の壮に及んでは、血気方に剛なり。之を戒むること闘に在り。其の老ゆるに及んで、血気すでに衰う。之を戒むること得に在り。 [論語 第十六 李氏篇 七]

670 孔子曰く、君子に三畏あり。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎れ、聖人の言を侮る。 [論語 第十六 李氏篇 八]

671 子曰く、性は相近し。習えば相遠ざかる。 [論語 第十七 陽貨篇 二]

672 広学博覧はかなふべからざることなり。一向に思ひ切て止べし。唯一事につゐて用心故実をも習ひ先達の行履をも尋ねて、一行を専らはげみて、人師先達の気色すまじきなり。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第一5p21(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

673 他の非を見て悪しゝと思ふて慈悲を以て化せんと思はば、腹立まじきやうに方便して、傍ら事を云ふやうにてこしらふべきなり。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第一7 p25(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

674 長官の包拯が主宰して花見の宴が張られた。同僚となった司馬光も招かれた。司馬光はがんらい酒を好まなかったが、長官から勧められると無理して飲み干した。ところが同じく下戸であった安石は頑として拒み通し、お開きになるまでついに盃を手にしなかった。 [三浦國雄「王安石」(集英社、1985p15-6]

675 安石は、馮道は戦乱の時代にわが身を屈して民生の安定につとめたとして、その生き方を「菩薩行」とまで称賛する。 [三浦國雄「王安石」(集英社、1985p24]

676 安石の書には、熱烈な愛好家がいた。もっとも著名な人が、人もあろうに朱子の父の朱松である。 [三浦國雄「王安石」(集英社、1985p28]

677 俗儒変を知らず。 [王安石]

678 子,武城に之き弦歌の声を聞く。夫子莞爾として笑いて曰く、鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん。子游対えて曰く。昔者、堰(ただし土偏でなく人偏)や、諸を夫子に聞けり。曰く、君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使いやすきなりと。子曰く、二三子よ、堰(ただし土偏でなく人偏)の言是なり。前の言は之戯れしのみ。 [論語 第十七 陽貨篇 四]

679 子曰く、由よ、汝六言六蔽を聞けりや。対えて曰く、未だし。居れ。吾汝に語らん。仁を好みて学を好まざれば、その蔽や愚(人に軽んぜられる)。知を好みて学を好まざれば、その蔽や蕩(とりとめなし)。信を好みて学を好まざれば、その蔽や賊(身を損なう)。直を好みて学を好まざれば、その蔽や絞(窮屈)。勇を好みて学を好まざれば、その蔽や乱(無秩序)。剛を好みて学を好まざれば、その蔽や狂。 [論語 第十七 陽貨篇 八]

680 子曰く、礼と云い礼と云う、玉帛を云わんや。楽と云い楽と云う、鐘鼓を云わんや。 [論語 第十七 陽貨篇 十一]

681 反合理主義的接近法、すなわち人間を高度に合理的かつ聡明なものとはみなさず、きわめて非合理的で誤りを犯しやすい存在であるとし、その個々人の誤りは社会的過程を通じてのみ訂正されると考え、不完全な素材をできるだけよく活用することを目指す接近法は、おそらく英国の個人主義の最も際立った特色であろう。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p13 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

The antirationalistic approach, which regards man not ass a highly rational and intelligent but as a very irrational and fallible being, whose individual errors are corrected only in the course of social process, and which aims at making the best of a very imperfect material, is probably the most characteristic feature of English individualism. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p8]

682 スミスや彼の同時代の人々が擁護した個人主義の主要な長所は、その体制の下では悪人が最小の害しかなしえないということであると主張しても、おそらく言いすぎではないであろう。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p15 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

However, that may be, the main point about which there can be little doubts is that Smith’s chief concern was not so much with what man might occasionally achieve when he was at his best but that he should have as little opportunity as possible to do harm when he was as his worst. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p11]

683 子曰く、古者は民に3疾あり。今や或いは是之すら亡き也。古の狂や肆(し=思うとおり)。今の狂や蕩(拠るところなし)。古の矜や廉(折り目正しい)。今の廉や忿戻(みさかいなく猛り立つ)。古の愚や直。今の愚や詐のみ。 [論語 第十七 陽貨篇 十六]

684 子曰く、巧言令色鮮なきかな、仁。 [論語 第十七 陽貨篇 十七]

685 子曰く、予言うこと無からんと欲す。子貢曰く、子如し言わずは、則ち小子何をか述べん。子曰く、天何をか言わん哉。四時行われ、百物生ず。天何をか言わん哉。 [論語 第十七 陽貨篇 十七]

686 子夏曰く、小道と雖も必ず観るべき者有らん。遠きを到めん(きわめん)とすれば泥まん(なずまん)ことを恐る。是を以て、君子は為さざる也。 [論語 第十九 子張篇 四]

687 夜話に云く、唐の太宗の時、魏徴奏して云く、土民等帝を謗ずることありと。帝云く、寡人仁ありて人に謗ぜられば愁ひとすべからず、仁無ふして人に讃ぜられば是を愁ふべしと。俗猶をかくの如し。僧は最も此の心あるべし。慈悲あり道心ありて愚痴人に誹謗せられんは苦しかるべからず、無道心にて人に有道と思はれん、是れを能々つゝしむべし。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第二3 p45(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

688 たとひ草菴樹下(じゅげ)にてもあれ、法門の一句をも思量し一と時の坐禅をも行ぜんこそ、誠の仏法興隆にてあらめ。今ま僧堂を立てんとて勧進をもし随分にいとなむ事は必ずしも仏法興隆と思はず。─中略─亦思ひ始めたる事のならぬとても恨みあるべからず、只柱ら一本なりとも立てゝ置きたらば、後来も、かく思ひくはだてたれども成らざりけりと見んも、苦るしかるべからずと思ふなり。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第二6 p51(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

689 吾れ在宋の時禅院にして古人の語録を見し時、ある西川の僧道者にてありけるが、我に問て云く、語録を見てなにの用ぞ。答て云く、古人の行李を知らん。僧の云く、何の用ぞ。云く郷里にかへりて人を化せん。僧の云く、なにの用ぞ。云く、利生のためなり。僧の云く、畢竟じて何の用ぞと。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第二9 p52(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

690 行を捨て学を放下せば、この放下の行を以て所求ありときこへたり。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第二22 p65(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

691 其の人にあらずして其の官に居するを乱天の事と云ふ。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第二24 p66(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

692 切に思ふことは必ずとぐるなり。強き敵、深き色、重き宝なれども、切に思ふ心ふかければ、必ず方便も出来る様あるべし。是れ天地善神の冥加もありて必ず成ずるなり。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第三14 p84(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

693 今問ふ、時光は惜しむによりてとゞまるか。惜しめどもとゞまらざるか。すべからくしるべし。時光は空くわたるべからず、人空くわたることを。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第四5 p90(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

694 示して云く、学道の人、悟を得ざることは即ち旧見(くけん)を存ずるゆへなり。本より誰がおしへたりとも知らざれども、心と云は念慮知覚なりと思ひ、心は草木なりと云へば信ぜず。仏と云へば相好光明あらんずると思ふて、仏は瓦礫と説けば耳を驚かす。かくのごとき執見、父も相伝せず、母も教授せず、只無理自然に久しく人のことばにつきて信じ来れることなり。然あれば今も仏祖決定の説なれば、あらためて心は草木と云はば便草木を心と知り、仏は瓦礫といはゞ瓦礫を便ち仏なりと信じて、本執をあらため去らば、道を得べきなり。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第四7 p92(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

695 一日僧問て云く、智者の無道心なると無智の有道心なると、始終いかん。答て云く、無智の有道心は終に退すること多し。智慧ある人は無道心なれども終には道心を起すなり。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第五5p110(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

696 示して云く、大慧禅師、ある時尻に腫物出ぬれば、医師此を見て大事の物なりと云ふ。慧の云く、大事の物ならば死ねべきや否や。医師云く、ほとんどあやふかるべし。慧の云く、若し死ぬべくんば弥よ坐禅すべしと云て、猶を強て坐しければ、其の腫物うみつぶれて別の事なかりき。古人の心かくのごとし。病をうけて弥よ坐禅せしなり。今の人病なふして坐禅をゆるくすべからず。病は心に随って転ずるかと覚ゆ。─中略─是を以て思ふに学道勤労して他事を忘るれば、病も起るまじきかと覚るなり。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第五16 p121-2(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

697 古人の云く、光陰虚く度ることなかれと云々。病を治せんと営むほどに除かずして増気し苦痛いよいよせめば、少しも痛のかるかりし時に行道せんと思ふべし。強き痛みを受ては尚を重くならざるさきにと思ふべし。重く成りては死せざるさきにと思ふべきなり。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第六8 p138(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

698 昔慧心僧都、一日庭前に草を食ふ鹿を、人をして打ち追わしむ。時に或る人問て云く、師慈悲なきに似たり、草を惜しみて畜生を悩ますか。僧都の云く,しかあらず、吾れ若し是を打ち追わずんば此の鹿ついに人になれて、悪人に近づかん時は必ず殺されん。この故にうちおふなりと。 [懐奘「正法眼蔵随聞記」第六9 p140(岩波文庫、和辻哲郎校訂)]

699 実際個人主義の偉大な著作家たちの主要な関心は、人間が自らの日常の行動を決定する動機から発して、他のすべての人々の必要にできるかぎり多く貢献するよう導かれることが可能なような一連の制度を発見することであった。そして彼らが発見したのは私有財産制度が、これまで理解されていたよりはるかに広範にこのような誘因となるということであった。 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p15 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

The chief concern of the great individualist writers was indeed to find s set of institutions by which man could be induced, by his own choice and from the motives which determined his ordinary conduct, to contribute as much as possible to the need of all others; and their discovery was that the system of private property did provide such inducements to a much greater extent than has yet been understood. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p12]

700 人々の道徳的態度の中に存在し得るすべての相違は、その社会的組織に対して持つ意義に関する限り、次の事実を前にしてはほとんど無きに等しい。すなわち人間の精神が事実上理解できることのすべては、自分を中心とする狭い範囲の事柄であるという事実、そしてたとえ彼が完全な利己主義者であろうと、またはこの上もなく完全な利他主義者であろうと、彼が事実上関心を持つことができる人間の必要は社会のすべての構成員の必要の中ではほとんど無視しうるほど小さい部分に過ぎないと云う事実がこれである、 [F A ハイエク「真の個人主義と偽りの個人主義」(ハイエク全集3, 春秋社1990p17 (嘉治元郎、嘉治佐代訳)]

All the possible difference in men’s moral attitudes amount to little, so far as their significance for social organization is concerned, compared with the fact that all man’s mind can effectively comprehend are the facts of the narrow circle of which he is the center; that, whether he is completely selfish or the most perfect altruist, the human needs for which he can effectively care are an almost negligible fraction of the needs of all members of society. [F A Hayek, Individualism and Economic Order (U Chicago Press, 1948) I. Individualism: True and False p14]