II 401-500 

論語 西部邁「アメリカ十二の大罪」 佐伯啓思「幻想のグローバル資本主義] マルクス・アウレーリウス「自省録」 

401 子曰く、君子は言に訥にして、行いに敏ならんことを欲す。 [論語 第四 里仁篇 二十四]

402 朽木は彫るべからず。糞土の牆はぬるべからず。 [論語 第五 公冶長篇 十]

403 子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者には安んぜられ、朋友には信ぜられ、少者には懐かしまれん [論語 第五 公冶長篇 二十六]

404 子曰く、甚だしいかな、吾の衰えたるや。久しいかな、吾復周公を夢に見ざる。 [論語 第七 述而篇五]

405 子曰く、憤せざれば啓せず、ひ(りっしんべんに非)せざれば発せず。一隅を挙ぐるに三隅を以て反さざれば、すなわち復びせざる也。 [論語 第七 述而篇 八]

406 子曰く、我生まれながらにして之を知る者に非ず。古を好み、敏にして之を求むる者也。 [論語 第七 述而篇 十九]

407 子曰く、奢れば則ち不遜、倹なれば則ち固(いや)し。其の不遜なるよりは寧ろ固しかれ。 [論語 第七 述而篇 三十五]

408 曽子曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁もって己が任と為す。亦重からずや。死して後已む、亦遠からずや。 [論語 第八 泰伯篇 七]

409 子曰く、吾知ることあらんや、知る無き也。鄙夫有り、来たりて我に問う。空空如たり。我その両端を叩いて竭(つく)す。 [論語 第九 子罕篇 八]

410 子川上に在りて曰く、逝く者は斯くの如きか、晝夜を舎かず。 [論語 第九 子罕篇 十七]

411 子曰く、吾未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ざる也。 [論語 第九 子罕篇 十八]

412 子曰く、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知るらんや。四十五十にして聞こゆるなきは、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。 [論語 第九 子罕篇 二十三]

413 顔淵死す。子哭して慟す。従者曰く、子慟せりと。子曰く、慟する有りしか。夫の人のために非ずは、誰が為に慟せん。 [論語 第十一 先進篇 十]

414 季路、鬼神に事えることを問う。子曰く、未だ人に事える能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。曰く,敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。 [論語 第十一 先進篇 十二]

415 斉の景公、政を孔子に問う。孔子、対えて曰く、君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり、と。 [論語 第十二 顔淵篇 十一]

416 樊遅仁を問う。子曰く、人を愛す、と。知を問う。子曰く、人を知る、と。 [論語 第十二 顔淵篇 二十二]

417 葉公政を問う。子曰く、近き者説ばば、遠き者来たらん。 [論語 第十三 子路篇 十六]

418 子夏、筥父(きょほ)に宰為り。政を問う。子曰く、速かにせんと欲するなかれ。小利を見ることなかれ。速かにせんと欲すれば、則ち達せず、小利を見れば則ち大事成らず。 [論語 第十三 子路篇 十七]

419 子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。 [論語 第十三 子路篇 二十三]

420 子貢問て曰く、郷人皆之を好まば、何如。子曰く、未だ可ならざる也。郷人皆之を悪まば、何如。子曰く、未だ可ならざる也。郷人の善き者之を好み、その善からざる者之を悪むに如かざる也。 [論語 第十三 子路篇 二十四]

421 子曰く、君子は事え易くして、説ばせ難き也。─中略─小人は事え難くして、説ばせ易き也。 [論語 第十三 子路篇 二十五]

422 子曰く、貧しくして怨む無きは難く、富て驕る無きは易し。 [論語 第十四 憲問篇 十一]

423 子曰く、君子は上達し、小人は下達す。 [論語 第十四 憲問篇 二十四]

424 子曰く、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。 [論語 第十四 憲問篇 二十五]

425 子曰く、君子は其の言の、其の行を過ぐるを恥ず。 [論語 第十四 憲問篇 二十九]

426 子曰く、人の己を知らざるを患えず、己に能無きを患えよ。 [論語 第十四 憲問篇 三十二]

427 子曰く、與に言う可くして之と言わざれば、人を失う。與に言う可からざるに之と言わば、言を失う。知者は人を失わず、亦言をも失わず。 [論語 第十五 衛霊公篇 八]

428 子曰く、人にして遠き慮りなくは、必ず近き憂有り。 [論語 第十五 衛霊公篇 十二]

429 産業革命のきっかけをつくったジェイムズ・ワットの蒸気機関の発明も、西インド貿易の関係者達の投資によってつくられた銀行から、その研究資金を借りて完成された、というエピソードは、きわめて象徴的である。 [増田義郎「略奪の海カリブもうひとつのラテン・アメリカ史」VII 砂糖と奴隷 p166]

430 西インドの経済体制がイギリスにとって絶対必要でなくなり、それどころか経済的損失をもたらすことが明白になったころから、奴隷制にたいするイギリス人の道徳的反省の声がさわがしくなり、1807年に、イギリス議会は奴隷貿易廃止、1833年に奴隷制廃止という崇高なる決断をくだしたのである。 [増田義郎「略奪の海カリブもうひとつのラテン・アメリカ史」VII 砂糖と奴隷 p169]

431 一般に帝国主義とはそうした願望(=世界を単一の基準で律し、そして自分がその規律の差配者になろうとする願望)にもとづく国家的行動のことを指すのである。だから、現下のグローバリズムつまり世界主義に文明や文化を進歩させる力があると信じるものは、その心性において帝国主義者だといってさしつかえない。 [西部邁「アメリカ十二の大罪」 文芸春秋1999 7 月 p108]

432 なぜ、法律一元主義を正義とするのであろうか。それは、歴史感覚の乏しいアメリカニストには慣習的規制の意義が理解できず、また個人主義に偏したアメリカニストには介入的規制の役割が把握できないからであろう。つまり彼らは、自分らの無知を正義にまで仕立てているのだ。慣習、介入そして法律、これら三者のあいだの最適結合を図る、それが規制論の正道であろう。そのごくまっ当な見解に悪のレッテルを貼ったのはアメリカニストである。 [西部邁「アメリカ十二の大罪」 文芸春秋1999 7 月 p112]

433 今世紀前半までは、アメリカニストたちは過剰な理想に駆られる正義漢であった。しかし今世紀末ともなれば、彼らは、理想にしてはならぬものを理想と見立てるという意味で、煽動家に堕ちている。早い話が、アメリカニストたちは、理想を語るに相応しい人格を有していない。また、理想の実現に必要な規律が彼らの集団には欠けている。つまり現代人は傲慢、虚偽、虚栄、軽信、色欲、憤怒そして貪欲といって大罪の兆候を顕わに見せつけているのだが、アメリカニストはそうしたものとしての現代の先導者である。 [西部邁「アメリカ十二の大罪」 文芸春秋1999 7 月 p112]

434 独創における表現性と流通における技術性との緊密な結び付き、それがアメリカニズムの根元的な形態だといってよい。そして独創といい流通といい、人々の面前に「あらわに」現れるのを旨としている。

 それによって破壊され忘却されるものが二つある。歴史に根差す「慣習」と文化に胚胎する「価値」とがアメリカニズムによって破砕され失念されていく。慣習も価値も人間の脳裏や社会の物陰で「ひそかに」待機しているものなのだ。そしてそれらは、本来的には、いかなる表現と流通を選択するかを定めるための基準に、ひそかにではあるが深く、関与するはずのものである。この基準がどんどん破壊されていくのであるから、表現の流通も、当座の刺激や流行に振り回されるという意味で、不安定状態に入っていく。[西部邁「アメリカ十二の大罪」 文芸春秋1999 7 月 p114-5]

435 金銭にかかわる権力機構は、政治にかかわる投票機構と並んで、たしかに人類の偉大な発明の一つである。しかし、人々の社会的役割にかかわる慣習の仕組みも宗教や道徳にかかわる価値・規範の制度も偉大な発明品なのであった。アメリカニズムの弊害は、慣習、価値そして規範を足蹴にする形で、市場と投票を膨張させた点にある。 [西部邁「アメリカ十二の大罪」 文芸春秋1999 7 月 p115]

436 役割の仕組みといい宗教・道徳の制度といい、それらは、一つに人々の社会関係を安定化させるためのものであり、二つには未来の危険を減少させるためのものである。経済学でいえば、前者の「社会の安定」は人々が共同で消費するものとしての「公共財」の問題にかかわり、後者の「未来の危険」は「情報の不確実性」の問題にかかわる。それら「市場の失敗」をもたらす問題は、けっしてエコノミストたちが思うような純技術的あるいは純確率的な性格のものではないのだ。市場という経済機構が他の政治的、社会的そして文化的な機構を食い破るために、市場では処理し切れぬ公共財問題や危険問題を発生させた、といったほうがよほど正しい。 [西部邁「アメリカ十二の大罪」 文芸春秋1999 7 月 p115-6]

437 「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である」とチェスタトンはいった。まったくその通りで、合理がそこから始まる前提も、合理がそこに留まる枠組も、合理それ自体によっては与えられない。合理の前提・枠組は、感情によって、ただし常識と呼ばれる安定した感情あるいは良識という名の健全な感情によって定められる。そしてその感情の安定性や健全性を保証するのは、歴史感覚、慣習行動そして伝統意識なのである。 [西部邁「アメリカ十二の大罪」 文芸春秋1999 7 月 p116]

438 より広くいって、アメリカニズムは「隠された次元」ではきわめて画一的に行動するあらゆるアメリカ人がホットドッグとコカコーラを手に、そして「アメリカ」と聞けば皆してほとんど本能的に興奮している。だが彼らは言語表現のような「露わな次元」では、互いの独自さを競い合い、ユニークつまり独特であることを誇りにしている。 [西部邁「アメリカ十二の大罪」 文芸春秋1999 7 月 p118]

439 今日の(ユーゴの)悲劇をもたらしたそもそもの原因は、アメリカがIMF とともに強硬に進めたユーゴの経済改革の失敗にある。 [浜田和幸「NTT 分割はアメリカの生贄だ」 文芸春秋1999 7 月 p123]

440 どのくらい数学に浸っていられるかが勝負の分かれ目だ。朝、起きたとき、きょうも一日、数学を頑張るぞ、と言っているようでは、とてもものにならない。夜、数学を考えながら寝て、朝起きたときは数学の世界に入っていなけらばならない。自分の命をけずって数学をやるくらいでなければ、とてもできない。 [佐藤幹夫の言葉、木村達夫「佐藤幹夫の数学」数学のたのしみ no.13 p30 (June, 1999)]

441 徳目教育とは、「個人の選択」や「判断能力」以前に必要な、この人間の原点を断固として押しつけてゆくものでなければならない。 [中西輝政「プリギッシュな『知識人』」 中央公論1999.9 p134; 下線は原文傍点]

442 そもそもこの書物(国富論)の背景には、全く異なったふたつの思考が控え、強い影響を及ぼしているのである。ひとつはマンデヴィルの『蜂の寓話』にあるような「私益こそが公益につながる」という思想であり、もう一つは、これを批判した、スミスの先生であるハチソンの道徳論である。経済の秩序をうみだすためには「私益の追求」たけで良しとする脱道徳的なマンデヴィルと、社会の秩序の基礎を与えるものはあくまで道徳だという強い信念を持っていたハチソンの対立が、この背後にはある。そしてスミスはそれを総合しようとした。 [佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p36-7]

443 道徳/経済、という対立関係、経済/社会、という対立関係、このふたつの溝に沿ってスミスの「体系」は亀裂を含んでいるのであり、言い換えれば、体系は異なって次元を含んでいる。そして、道徳と社会を結びつける糸がもう一つある。これが、後にも述べるように、スミスのもうひとつの主著である『道徳感情論』であった。 [佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p38]

444 自然価格とは自由競争のもとでの長期的な均衡価格だとまぎれもなくスミスは述べているようにみえる。だが注意しなければならない。

 まず、ここでスミスはあるひとつの商品について論じているだけなのであって、市場経済という「全体系」が需要と供給の価格メカニズムで動くなどとは決していってはいないのである。実際、スミスは、後に経済学者が「一般均衡論」という形で議論することになる、市場体系全体の価格メカニズムなどと言うことは全く論じてもいないし、ましてや、市場は効率的だなどという議論はいっさいしていない、ということに注意しておきたい。─中略─すでに述べたように、「自然価格」が、賃金、利潤、地代の加算として理解されており、しかも、どうもそれらは市場均衡で決まるとは考えにくいのである。もし市場の全体系が価格メカニズムによって動くという「一般均衡」に立つというなら、賃金、利潤、地代も市場で決まらなければならないだろう。

─中略─

しかも、賃金、利潤、地代の水準が市場では非決定だとすれば、一般の商品の「自然価格」も必ずしも市場で決まるものではないことになる。

─中略─

市場価格が需要、供給からなる「経済学的」な概念だとすれば、自然価格は、賃金、利潤なとについての社会的評価を含んだ「社会学的」な概念だとひとまず整理しておこう。

 同時に、もしそうだとすれば、もはや市場というシステムは決して自己完結的ではなくなる。

─中略─

 しかし私がいま気になるのは、ただ、市場が自己完結的ではない、というだけのことではない。問題はもう少し先にあるのだ。なぜスミスは、市場は「自然な状態」を実現する、というような言い方をしたのだろうか。市場はただ需給を調節するとは言わずに(そういおうとすれば明らかにそうできたにもかかわらず)、どうして「自然な状態」という言い方をしたのだろうか。実際、スミス流の市場の「自己調節のメカニズム」とわれわれが表現するものは、スミスの言葉では、たとえば市場は「事物の自然な秩序」を実現する、と表現されているわけだ。[佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p44-52]

445 『道徳感情論』でスミスが試みたことは、一言で言えば、道徳性の基礎を、人間の自然な感情から導き出すことであった。これは、当時の通俗的な見解、ひとつは、道徳をキリスト教という絶対倫理から導くというやり方とも、また道徳の基礎を、人間理性に求める啓蒙主義的な思考とも異なるもので、これらと対比させてみれば、相当にユニークでかつ斬新的な試みであったといってよいであろう。 [佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p60]

446 スミスは何よりもまず道徳哲学者だったのであり、規範を含んだ分析者でもあった。言い換えれば、スミスは、勃興しつつある市場経済の「確かな土台」を求めていたといってよい。市場と商業と貿易を重視するだけのことなら重商主義で十分なはずであろう。実際、18世紀イギリスの「現象」として映るものは、急展開する市場と商業と貿易出会った。だがスミスはその「現象」をそのまま書き留めたのではなかった。彼はこの「現象」を批判しようとしたのだ。 [佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p126]

447 歴史思想家のポーコックは、まさに18世紀のイギリスで、この「徳(ヴァーチュー)」の観念の組み替えが行われたと述べている。彼によると、勇気や知恵や公共心やあるいは愛国心と結びつけられた古代的かつ共和主義的精神を思わせる「徳」は、この時代に「作法(マナーズ)」という観念に置き換えられていったというのだ。個人の内面にある義務感の表出であり、また力の表象である勇気、深慮といった「徳」は、生活の中での優雅さや上品さといった作法に置き換えられていった。

 勇気を持つことや公共心を持つことではなく、優雅さや上品さ、礼儀やものごしこそが大事だと見なされるようになる。

 むろん、両者とも社会生活に必要な「徳」だということはできる。しかし、その意味は大きく変わってきている。「徳(ヴァーチュー)」が公共空間で見せるものは、個人(貴族)のもつ「力(ヴィルトゥス)」である。それに対して、「作法(マナーズ)」が見せるものは、上流「らしさ」なのである。

 そしてこの組み替えを始動させたものは商業活動にほかならず、商業によって新たな財産形態が出現したという事実に他ならない。

─中略─

ポーコックによると、「上品と洗練は18世紀の商業のイデオロギーの重要な要素であった」ということになる。

 このことは、人間性の本質が「情念」にあるという、スミスやヒュームだけでゃなく、この時代に共有された哲学とも深い関係をもっていた。─中略─情念は、決してつねに穏やかで飼い馴らされているものではない。ときとしてそれは猛獣のように牙をむき、制御をふりはらって暴走する。ではこれを抑制するものはいったい何なのか。そういうものがあるとすれば、それは「世間の評判」であろう。─中略─スミスは、日常の生活の中では、世間の評判が情念の暴走を抑え、また経済においては市場が、情念を制御しやすいものに変えるだろうと、とりあえずは考えたわけである

 もしそうだとすれば、日常のレベルでいえば、世間から「見られること」、どのように見られるかということこそが情念を抑制するのに役立つだろう。貨幣や信用という浮遊する富を流通させるものは、ともすれば過剰な情念にほかならないのだから、まさに、「世間の評判」だけが、貨幣や信用による過剰な「金儲け」を抑制できる。経済も文字通り「信用」つまり「世間の評判」によって秩序をえるのである。そして、この世間の評判をえる方策が「上品」や「洗練」といった「作法」の他ならないのである。こうして、「情念」を「世評」に置き換えることによって、情念を社会化し、制御しようとした、これが18世紀の商業イデオロギーというべきものであった。[佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p162-65]

448 「徳(ヴァーチュー)」から「作法(マナーズ)」への移行は、かなり重要な意味をもっている。それは、不動産から動産への移行というだけでなく、「愛国心」から「利己心」への、共同体意識から商業の意識への、確かなものに根差した世界から浮遊する世界への、価値の実体から価値のヴァーチャリティへの移行にほかならない。 [佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p165]

449 機関銃の使用は機械による殺戮を意味したため、それまでは、インディアンをはじめとして有色人種の殺戮にしか使われなかった。その殺戮機械を白人に向けたという点で、南北戦争は、それまでの戦争と異なっていた。[柏木博「夢の期間と世界支配内燃機関」図書 1998 6 月 p42]

450 1860年、フランスのエチエンヌ・ルノアールがガス機関を発明する。ルノアール機関はガスと空気がシリンダーに交互に入り電気スパークによって点火された。イギリスのエンジニアたちは、れを蒸気機関に似たものであり、陳腐なものだとしか見なかった。そのためにイギリスは移動システムの技術にやがて立ち遅れることになったのである。 [柏木博「夢の期間と世界支配内燃機関」図書 1998 6 月 p45]

451 信用の急速な拡張、このことが名誉革命以後のイギリス革命を特徴づけることのひとつである。そして、信用は、一般的にいえば、社会の評判を基礎にしている。─中略─私が本当に信用できるかどうか、ではなく、信用できるようだ、という風評、評判が私の信用を流通させるのだ。こうして、信用とは社会の評判そのものとさえいってよい。 [佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p184-5]

452 スミスが求めたものは、市場経済の自由な活動そのものではなく、市場経済の「確かな基礎」であった。─中略─不確実性、偶然性、人為性、浮遊性、こういったものに市場を委ねることに対してスミスはつねにしかも強く警戒的であった。 [佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p195]

453 スミスが重商主義を批判したのは、それが外国貿易に過剰な比重を置き、国内経済を軽視しているからだということになるのではなかろうか。─中略─ 

 重商主義をとは、文字通り「商人中心主義(Merchantelism)」である。スミスは商業活動の重要性を決して否定しないが、明らかに、農業や製造業などのモノの生産の方を重視していた。 [佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p211-2]

454 スミスが擁護したものは、現代のわれわれが市場中心主義やグローバリズムなどという名前で呼んでいる事態とは全くかかわりないことだといってもよい。それどころか、もう少しおおげさにいえば、スミスが扱った問題は、今日、われわれが、市場中心主義やボーダーレスな競争、あるいはグローバリズムなとという名で呼ぶところの経済に対する批判であった。彼の真の関心は、それらの嵐から国民経済の秩序をどう防衛するかということだったようにさえみえる。防衛されるものはまた。国家であり、国家に支えられた生活の安定であった。それゆえ、スミスを、「国民経済主義者(ナショナル・エコノミスト)」と呼んでもよいだろう。 [佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p228]

455 17世紀末から18世紀前半へかけての名誉革命後の体制は、いわゆる商業革命という言葉に示されるように。商業と金融の結合による市場の急展開がみられた時代であった。特にロンドンのシティは、新たな銀行家の登場と戦乱のヨーロッパ、とりわけオランダから流入する資金で一種のグローバル金融市場とでもいうべきものへと成長しつつあった。こうした状況に対する危機感からでてきたひとつの解答が『国富論』なのである。

 スミスが危機感をもったのは、この「新しい経済」がいかにも不安定だったからだ。それはいわば確かな根をもたない、金融と商業の結び付きであった。金融の市場は、「確かなもの」に基礎をおかず、信用という不安定であやふやなもの、一種の世論、大衆的気分、共同の相互信頼、それらの交じりあった実体をもたない集団心理に支えられているだけなのであった。 [佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p229-230]

456 貨幣はそれが金であれ銀であれ、最終的には、それが貨幣であるという社会的「信認」あるいは暗黙の「承認」によってのみ信用をえている。つまり貨幣たりえ手いる、富=貨幣、という命題が成り立つ認識論敵な事情であった。

 ところが、スミスは、まさにこのことでは不十分だと考えた。これでは交換はあまりに不安定だと考えたわけである。そこで、スミスは、市場という交換の体系ただ交換だけから成り立っている、それゆえに貨幣が唯一の価値の支えであるような世界に裂け目を入れた。かれは市場という相互依存的な価値だけでは満足できなかった。だから、商品の価値を決めるものは「自然価値」だとし、そこに労働という全く新しい要素をつけ加えたのであった。 [佐伯啓思「アダム・スミスの誤算幻想のグローバル資本主義(上)」p232]

457 公共事業や他の政府関連事業には政治的利権が発生し、選挙における得票と利権が無関係ではありえない現代の民主主義のもとでは、政府予算は拡大の一途をたどらざるをえず、また公共政策は必ずしも経済効率や構成の基準を満たすとは限らない。こうして、ケインズ主義のもとでは、どうしても「大きい政府」、非効率な経済が生み出される傾向が生じる。しかも、本来、市場へ配分されるべき資源のかなりの部分が「政治的」取引や利権によって動かされることになる。

 最もこのことをケインズ主義の責任に帰するのはいささかバランスを欠いていよう。問題は、民主主義が大衆化する時代には、ケインズ的政策も大衆政治に飲み込まれてゆくという点にこそ求められるべきであろう。 [佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p12]

458 I learned more from Fermi in 20 minutes than I learned from Oppenheimer in 20 years. In 1952 I thought I had a good theory of strong interactions. I had organized an army of Cornell students and postdocs to do calculations of meson-proton scattering with the new theory. Our calculations agree pretty well with the cross-sections that Fermi was then measuring with the Chicago cyclotron. So I proudly traveled from Ithaca to Chicago to show him our results. Fermi was polite and friendly but was not impressed. He said, ”There are two ways to do calculations. The first way, which I prefer, is to have a clear physical picture. The second is to have a rigorous mathematical formalism. You have neither.” That was the end of our conversation and of our theory. [Freeman Dyson, ”A Conservative Revolutionary,” Talk at the banquet of the C N Yang retirement sympo May 21-2, 1999, Mod Phys Lett A 14 1455 (1999).]

459 次のことにも注意する必要がある。それは自然の出来事の随伴現象にもまた雅致と魅力があるということだ。たとえばパンが焼けるときところどころに割れ目ができる。こういう風にしてできた割れ目は、ある意味でパン屋の意図を裏切るものではあるが、しかし或るおもむきを持ち、不思議に食欲をそそる。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第3章 2 p30]

460 公益を目的とするのでないかぎり、他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな。なぜならばそうすることによって君は他の仕事をする機会を失うのだ。すなわち、誰それは何をしうるだろう、とか、なぜとか、なにをして、なにを考え、なにをたくらんでいるかとか、こんなことがみな君を呆然とさせ、自己のうちなる指導理性を注意深く見守る妨げとなるのだ。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第3章 4 p32]

461 突然ひとに、「今君はなにを考えているのか」と尋ねられても、即座に正直にこれこれと答えることが出来るような、そんなことのみ考えるよう自分を習慣づけなくてはならない。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第3章 4 p32]

462 曇りなき心を持ち、外からの助けを必要とせず、また他人の与える平安を必要とせぬように心がけよ。(人に)まっすぐ立たせられるのではなく、(自ら)まっすぐ立っているのでなくてはならない。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第3章 5 p34]

463 すべて君の見るところのものは瞬く間に変化して存在しなくなるであろうということ。そしてすでにどれだけ多くの変化を君自身見とどけてきたことか、日夜これに思いをひそめよ。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第4章 3 p44]

464 「自分は損害を受けた」という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。[マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第4章 7 p46]

465

14 君は全体の一部として存続して来た。君は自分を生んだものの中に消え去るであろう。というよりはむしろ変化によってその創造的理性の中に再び取りもどされるのであろう。

15 沢山の香の粒が同じ祭壇の上に投げられる。或るものは先に落ち、或るものは後に落ちる。しかしそれはどうでもよいことだ。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第4章 p47]

466 あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第4章 17 p48]

467 隣人がなにをいい、なにを行い、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮る者は、なんと多くの余暇を獲ることであろう。[他人の腹黒さに眼を注ぐのは善き人にふさわしいことではない] 目標に向かってまっしぐらに走り、わき見するな。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第4章 18 p48]

468 君のおぼえた小さな技術をいつくしみ、その中にやすらえ。そして自分のすべてを心の底から神々に委ねた者。またいかなる人間に対しても自分を暴君にも奴隷にもなしえなかった者のごとく余生を送れ。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第4章 31 p52]

469 アテーナイ人たちの祈り。「雨を、雨を、おお恵み深きゼウスよ、アテーナイの人びとの野と畑の上に。」全然祈らないか、それともこういう風に単純に、率直に祈るか、そのいずれかを採るべきである。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第5章 7 p65-6]

470 つねに信条通り正しく行動するのに成功しなくとも胸を悪くしたり落胆したり厭になったりするな。失敗したらまたそれにもどって行け。そしてだいたいにおいて自分の行動が人間としてふさわしいものならそれで満足し、君が再びもどって行ってやろうとする事柄を愛せよ。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第5章 9 p67]

471 こうした理由から、金融のグローバリズムという「国際金融の利益」は「産業の利益」を犠牲にする可能性が高い。貨幣という実体的価値をもたないシンボル的存在、「浮遊するもの」あるいは「余計なもの」、元々はただの交換の便宜にしかすぎない手段、それが、実体的価値をうみだす「産業の利害」に決定的な影響を及ぼしてしまう。国境を越えたコントロール不可能な貨幣、世界を越えて浮遊して、ただ利得だけに反応して流動する貨幣、社会の意味体系の中に確かな位置をもたない「余計なもの」としての貨幣、この国家の間を流動する抽象的な記号の典型が短期的国際資本である。そして国際資本の自由な移動を保証するグローバル市場こそが、ナショナル・エコノミーの基盤である産業を攪乱する。ここにケインズが自由放任主義を捨て、一種の国民経済主義者(エコノミック・ナショナリスト)となる理由があった。 [佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p64-5]

472 経済計算は、私の貯蓄を地球上のもっとも有利な所に投資するのがよい、というだろう。このとき、私は、自分の所有するものに何の責任も感じないし、また私の所有するものも、私に何の責任もない。だがそれにもかかわらず、とケインズはいう。経験によると、所有とその使用(オペレーション)が分離してしまうことは、人々の関係においては罪悪なのである。 [佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p69]

473 もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第6章 6 p82]

474 工匠たちはあるところまでは素人に調子を合わせるが、そのために彼らの技術の原理にそうのをおろそかにするようなことはなく、これから離れることをいさぎよしとしない。この事実を君は見ないか。建築家や医者が自分の技術の原理にたいしていだく心のほうが、人間が自己の理性それを人間は神々と共有するのだがにたいしていだく気持ちよりももっと敬虔であるとは、ふしぎなことではないか。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第6章 35 p92]

475 蜂巣にとって有益でないことは蜜蜂にとっても有益ではない。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第6章 54 p98]

476 苦痛について。「耐えられぬものは殺す、長く続くものは耐えられるものである。」 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第7章 33 p104]

477 人生を建設するには一つ一つの行動からやって行かなくてはならない。そして個々の行動ができるかぎりその目的を果たすならばそれで満足すべきだ。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第8章 32 p132]

478 得意にならずに受け、いさぎよく手放すこと。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第8章 33 p132]

479 或ることをなしたために不正である場合のみならず、或ることをなさないために不正で或る場合も少なくない。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第9章 6 p147]

480 善い人間の在り方何如について論ずるのはもういい加減で切上げて善い人間になったらどうだ。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第10章 16 p170]

481 君の仕事はなにか。「善き人間であること。」これに成功するには一般原理から出発する以外の道があろうか。その原理とは、一方においては宇宙の自然に関するものであり、他方においては人間固有の構成要素に関するものである。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第11章 5 p183]

482 哲学するには、君の現在あるがままの生活状態ほど適しているものはないのだ。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第11章 7 p184]

483 隣の枝からきりはなされた枝は、樹全体からもきりはなされずにはいられない。 [マルクス・アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)第11章 8 p184]

484 失業の原因は、一国の有効需要の大きさが、完全雇用を確保できるよりも小さな水準にとどまっている点にある。─中略─

 そうすると問題は、有効需要の大きさはどのように決まるか、という点に移るだろう。─中略─有効需要の大きさは、消費者の消費態度、企業の投資、そして政府の財政規模によって決まることになる。

─中略─

一国全体でいえば総消費支出は国民所得水準に依存するが、国民所得はおおよそGNP に対応しているから、ここで実は、消費支出は、有効水準を決める独立変数にはならないのである。それゆえ問題は投資ということになる。実際、ケインズの基本的な考えは、企業の投資こそが有効需要を決める決定的なファクターであり、その結果、経済変動をもたらす最大の要因を投資に求めるところにある。ケインズ理論の核心は、企業の投資こそが、市場経済の安定性のカギを握っているという理解にあるといってよい。

─中略─

 では企業の投資は以下にして決まるのだろうか。─中略─企業の投資を決定する基本要因は、期待収益と市場利子率ということになる。─中略─ここでケインズは、極めて重要な論点をもちこんでいるのであり、まさにそこにケインズ理論の革新的な意味があった。それは、「将来についての期待」なるものが現在の経済の大きさに対して決定的な役割を果たしうる、という論点であった。

─中略─

 だがそんな遠い将来についてわれわれは適切な期待などもちうるのだろうか。当然「将来の期待」はきわめて不確定なものとなり、単なる「気分」というあいまいな心理によって左右され、決して計算可能な透明なものではない。この場合の「期待」は、決して数学的期待値のように合理的に計算可能なものではなく、むしろ得体の知れない非合理なとらえどころのないものであり、しかしそのことが企業家の心理には決定的な意味をもってくる・「曖昧なもの」が市場メカニズムという精密機械のような合理的仕掛けの真っ只中の一等地を占拠しているのである。それはあたかも「機械の中の幽霊」のように、市場の合理性をせせら笑っている。ケインズ理論のもっとも強力なインパクトは、このような、得体の知れない不確定性、合理的には説明できない「曖昧なもの」が市場経済の核心にあることを的確に指し示した点にあった。 [佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p77-80]

485 計算可能で合理的な投資計画を立てようとすれば、どうしても安全で確実な活動に限定され、企業は革新的なことに手を出せなくなってしまう。ケインズはいう。「もしアニマル・スピリット(血気)が鈍り、数学的期待値のほかにわれわれが頼るものがなくなってしまえば企業は衰え死滅してしまうであろう。」

─中略─

大不況の最大の原因は、企業が将来について楽観的な予測をもてず、アニマル・スピリットを減衰させてしまった点にある。

─中略─

この制御しがたい「アニマル・スピリット」の混乱が市場を崩壊させているのだとすれば、市場の自発的な回復に期待するわけには行かない。それゆえ、ケインズは、市場の「外部」から、政府支出の増大という財政政策によって有効需要を人為的に注入することこそが不況脱出の決定的な方策だとしたのであった。[佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p82-3]

486 20世紀の資本主義の本質的な特徴、それは、バーリ、ミーンズが述べたように、「資本」が「経営」から分離し、生産にかかわる実物資本から切り離された金融資本が成立してしまった点にある。生産に使われる実物資本は一度据え付けてしまうと固定的になり、容易に取り替えるわけにはいかない。それゆえにこそ、投資計画を立てる企業家は、予想不可能な将来に向けて「アニマル・スピリット」を発揮して「決断」しなければならない。

 しかし、当然、巨大な投資には巨額な資金が必要で、もし資金が十年、二十年の事業の結果としてしか回収できないのだとすれば、これほどのリスクのある事業に資金を提供するものは誰もいないだろう。だが、ここで資本を流動化し、その一部、つまり利益を受け取る権利を金融証券として流動化すれば、さしたるリスクを負わずに多くの者が資金を提供できる。これが現代の株式会社である。 [佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p84]

487 企業は、投資に当たって長期的な期待をもとうとするが、実際にはそれはほとんど不可能なことであった。─中略─ケインズは、この情報欠如の状態において将来に関してもつ期待の確かさの度合いを「確信の状態(state of coonficence)と呼んでいるが、一般的にいえば、長期の期待については、ただ確率計算が不可能という以上に、ある事態をどれくらい重要なこととして取り上げるかといったことについての確信、つまり「確信の状態」が頼りないのだ。

 そこ、長期について確信(confidence)のもてない企業家達は、投資評価を株式市場での証券評価に置き換えるであろう。長期の予測を、今期の株式市場での評価に置き換える。

─中略─

 だがそれでは、株式市場における評価とはいったい何だろうか。端的にいえば、そこには特に合理的根拠というものがない。ある企業の株式価格は一種の「群集心理」の結果でしかない、とケインズは考える。ここでもちだされれるのが、しばしば引用される美人投票の例だが、それによると、株式市場の評価とは、あたかも100枚の写真の中から六名の美人を選ぶことと同様である。しかも、この美人投票に参加した投票者の中から次のものには賞金を与えられる。それは、その選択が投票者全体の平均的な好みにもっとも近かった者である。つまりもっとも大量得票を得た女性に投票した者が賞金を得られるわけだ。こうなると、人々は、彼が美人だと思っている女性に投票するのではなく、多数者が誰を選ぶか、ということに関心をもつだろう。しかし、これでもまだ十分ではない。なぜなら、全員がこの種の選択を始めると、事態はもう少し複雑になるからだ。他人もまた多数者の意見がどこに落ち着くかを考慮するのであり、そうだとすると、多数の者が多数意見が何であると想定するか、読みあうということになる。

─中略─

 ここには、美人の客観的基準などというものは存在しない。[佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p86-8]

488 ここから大きく分けてふたつの態度がでてくるだろう。つねに、多数派の「おもわく」の落ち着き先を読み、つねに、次元をあげて多数派の落ち着き先と先回りして読もうとする集団が現れるであろう。しかし他方には、特別なことがなければ、美人についての平均的意見はさして変化はしないだろうと考え、既存の投票結果の中の多数派に付いておくという選択を行う集団がいるだろう。いうまでもなく、前者は「玄人筋」であり、後者は「素人筋」である。

─中略─

 注意しておかねばならないのは、「玄人」とは決して、企業の業績についての情報をもっているものでもなく、また将来の業績について的確な予測をするものでもない。所詮それは不可能なことだ。彼はあくまで美人投票ゲームで、多数派の意見の変化や落ち着き先を前もって読もうとするような人たちなのだ。

 一方、市場に登場する大部分の「素人」は、特別のことがなければ、同じことが持続すると考える。─中略─ケインズはこのことを「コンベンション(慣行)」と呼んだ。

─中略─

 だが問題は、この「慣行」そのものが聊か「恣意的」で、いわば「群集心理」しかも、そもそもさしたる根拠がなかった分だけ、いったん変動が起きれば動揺は激しくなるだろう。─中略─「十分な投資を確保するというわれわれの現在の難問のかなりの部分を作り出しているのは、慣行の頼りなさなのである」というケインズの議論は全く正当なものである。[佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p88-90]

489 ケインズは、「投機」を専ら「市場の心理を予測する活動」と定義し、一方、「企業」を「資産の全期間にわたる予想収益を予測する活動」と捕らえている。そして、投資市場の組織化ととも「企業」に対して「投機」が優位に立つことを指摘し、これを危険なことだとみた。 [佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p92]

490 労働はもはや、生活そのものにもつながらないし、人生の意義にもつながらないし、人々の評判をえるという社会的評価にもつながらない。

 こうした世界で、いったい、労働はどのような意味をもつのだろうか。また、こうした世界で人々が頼りにするものはいったい何なのか。おそらくそれは貨幣だけだろう。そして労働はまさにその貨幣を獲得する手段以外の何ものでもなくなっている。

─中略─

人は、自分の労働の意義を、貨幣という普遍的な尺度に結びつけなければ生きてゆけない。現代の市場経済の中で、社会的な存在として成り立つ条件はそれ以外にありえないのである。 [佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p99-100]

491 およそ秀歌には劣る返り事は云はず。これ故実なりと云々。 [藤原清輔「袋草子」上 一、白紙を置く作法]

492 帥大納言云はく、「女房の歌読み懸けたる時は、これを聞かざる由を一両度不審すべし。女房また云ふ。かくのごとく云々する間、風情を廻らし、なほ成らずんばまた問ふ。女房ゆがみて云はず。その間なほ成らずんば「別の事に候けり」とて逃ぐべし。これ究竟の秘説なり」と云々。[藤原清輔「袋草子」上 一、連歌の骨法]

493 これはあまり注意されたことのない点であるが、貨幣賃金が安定していることはまた、貨幣が十分な信頼を以て流通するための重要な条件ともなっている。貨幣賃金が安定して、雇用がある程度安定することによってはじめて、人々は市場というシステムを信頼してそこに参加することができる。一定の労働によって一定の貨幣が手に入るという保証があってはじめて人々は貨幣を信頼して使うのだ。貨幣の流動性は、実は、貨幣賃金の安定性と不可分なのである。 [佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p101]

494 貨幣賃金を安定化することによって、貨幣に対する信頼は、人間の労働という現代の資本主義で唯一頼れるものに結びつけられた。これはケインズの苦肉の策であったようである。なぜならそれでも十分ではないからだ。どうしてか。それは、もはや労働とは全く無関係に価値を生み出す貨幣の市場ができてしまったからにほかならない。それが金融市場であり、しかも、「所有」と「経営」の分離した現代の資本主義では、この金融市場は、生産とは無関係に自立してしまうのである。ここでは貨幣はもはやコントロール不能なほどに「浮遊」するのであり、ここに現代資本主義の真の不安定性があった。

 ではこの不安定に動く貨幣をつなぎ止めるものは存在しないのだろうか。いや方策はある。それは、国家による通貨管理だというのがケインズの処方であった。 [佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p102-3]

495 スミスは市場経済の基盤を確かなものにつなぎ止めるものは、国家(政府)というよりも、社会のもつ道徳的規律であった。─中略─一方ケインズは、社会の道徳的基盤を信用するのではなく、国家によるマクロ的な経済運営にこそ、市場を安定化する確かな基盤があるとみた。─中略─公共心と長期的視野と判断力をもったエリートが市場経済を安定化するというのが彼の期待であったといえるだろう。 [佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p126-7]

496 デリバティブによって金融市場のリスク分散は促進され、結果として多くの資金が金融市場に流入し、金融市場の効率化は促進される。─中略─

 しかし、リスク管理が容易になるということは、それだけ確実に儲かるということである。─中略─短期資本は、ある程度確実な利益を生むことが可能となる。─中略─問題は、予期せぬ大きな変化が生じたり、あるいは変化の方向の予想が大きく外れた場合である。─中略─こうした事態が大規模に発生すれば、ヘッジファンドのような短期資本はきわめて不安定的要因となる。短期資本そのものが大きな損失を発生させるからだ。

 しかし、さらに、もう一つの不安定化の動きがある。それは、ある期待のもとに、リスク回避のためにある資本が一定の方向に動くとき、この動きの結果はきわめて予想しやすいものとなるだろう。その結果、それに続いて多くの資本が、同方向の動きに追従してえられる収益を求めて、あるいは損失を回避するためにいっせいに動くという場合である。このときには、投資家は利益をあげる。資本の動きは合理的なのである。しかしその結果として市場はきわめて不安定となる。そして多くの通貨危機や経済危機はこうした形で生じる。[佐伯啓思「ケインズの予言幻想のグローバル資本主義(下)」p132-3]

497 人間というものは、たった何文字かの名前で把握されてしまうような簡便でわかりやすいものではなく、かえって「夕顔の花」とか「六条という場所」によってイメージされるような曖昧模糊とした実質を持つものなのです。そのことを前提にして、源氏物語の作者は膨大な物語を書き進め、人間というものをかきわけているのですね。 [橋本治「源氏供養」上 その三 p56]

498

村上 僕は、書けなくなるなんて、一度も考えたことがない。そういったネガティブな発想が自分のどこにも存在しないと最近気づいた。

中田 僕もないですね。考えない。

村上 そういうネガティブな発想がデフレスパイラルを生むんだよ(笑)。そんなヒマがあったら、ナンパするとか、まだ昼寝の方がいいよ。 [村上龍+中田英寿「ヒデは自分が天才だと思う?」 文芸春秋1999-11p306]

499

中田 たとえば努力ということだったら、それなりに努力もするけど、それは別に大変じゃなくて、自分にとっては当たり前のことなんですよね。気分的に辛いときだってあるけど、ごく普通のこと。

村上 うーん、なぜかとても不思議なんだけど、それを「苦労」といわせたがるんだよね。僕もいろいろと大変だったけど、苦労なんてなーんにもしてないからね。苦労なんかなんにもないと言うと、取材とかそれで終わりになってしまうからな。 [村上龍+中田英寿「ヒデは自分が天才だと思う?」 文芸春秋1999-11p307]

500

村上 最近気づいたんだけど、日本では、まず「きっかけ」が必要なんです。─中略─「きっかけ」さえあれば誰だって小説家になれるし、誰だってセリエA の選手になれる、そんな感じ。充実していない人生を送る多くの可哀相な人が「わたしはきっかけがなかっただけ」と思える。

中田 何事にも逃げ道が必要なんだ。

村上 ─中略─日本では、きっかけと苦労で大半は説明可能なの。それで最後の決め手が「秘訣」。

中田 それ、わかる。いるよ、サッカーが上達する秘訣はなんですかって平気で聞く人(爆笑)。

村上 苦労ときっかけと秘訣、これが、日本のメディアのキーワードです。 [村上龍+中田英寿「ヒデは自分が天才だと思う?」 文芸春秋1999-11 p307]