II 801-900 

ハイエク「自由の条件」  福翁自伝   岡谷繁実「名将言行録」  井筒俊彦「イスラーム思想史」   今谷明「戦国大名と天皇」

801 しかし、記憶しておかねばならぬことは、はっきり真実であると示すことのできないすべての信念にまで迷信の概念を拡張することは同じく正当とみなすわけにいかないし、そして時には有害であるということである。誤りであることが明らかにされたものをすべて信ずべきでないということは、真実であると証明されたものだけを信ずべきであることを意味しない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第4章 自由、理性および伝統 p95 (Or. p64)]

802 理性の使用に適切な限界を求める必要があるとしたら、そのような限界をみつけることそれ自体が理性にとってもっとも重要で、困難な課題であると。中略われわれの試みてきたことは、理性の有効な作用の仕方と連続的成長の条件を理解していない人びとがそれを誤用することに対して、理性を擁護することである。それはすなわち、われわれは懸命にわれわれの理性を使用しなければならない、そしてそのためには、われわれは統御不能で非合理的な、不可欠の基盤を維持しなければならないことを人びとにわからせようとする訴えである。この基盤こそ理性の有効な働きを可能にする唯一の環境なのである。[F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第4章 自由、理性および伝統 p102 (Or. p69)]

803 私はただ古来の門閥制度が嫌い、鎖国攘夷が嫌いばかりで、もとより幕府に感服せぬのみか、コンナ政府は潰してしまうが宜いとふだん気焔を吐いていたが、さればとて勤王連の様を見れば、鎖攘論は幕府に較べて一段も二段も激しいから、もとよりコンナ連中に心を寄せる筈はない。ただ黙って傍観しているうちに維新の騒動になって、徳川将軍が逃げて帰って来た。中略策士論客は将軍に謁して一戦の奮発を促し、諫争の極、声を放って号泣するなんぞは、如何にもエライ有様で、忠臣義士の共進会であったが、その忠義論もトウトウ行われずに幕府がいよいよ解散になると、忠臣義士は軍艦に乗って函館に居る者もあれば、陸兵を指揮して東北地方に戦う者もあり、またはプリプリ立腹して静岡の方に行く者もあるその中で、忠義心の堅い者は東京を賊地と言って、東京で出来た物は菓子も食わぬ、夜分寝る時にも東京の方は頭にせぬ、東京の話をすれば口が汚れる、話を聞けば耳が汚れるという塩梅式は、丸で今世の伯夷叔斉、静岡はあたかも明治初年の首陽山であったのは凄まじい。ところが一年立ち二年立つ中に、その伯夷叔斉殿が首陽山に蕨の乏しいのを感じたか、ソロソロ山の麓におりて、賊地の方にノッソリ首を出すのみか、身体を丸出しにして新政府に出身、海陸の脱走人も静岡行の伯夷叔斉も、猫も杓子も政府の辺に群れ集って、以前の賊徒は今の官員衆に謁見、これは初めてお目に掛るとも言われまい、かねて御存じの日本臣民でござるというような調子で、君子は既往を語らず、何も咎め立てするにも及ばぬようだが、私には少し説がある。そもそも王政維新の争いが、政治主義の異同から起って、たとえば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱えて、ついに幕府の敗北となり、その後に至りて勤王家も大いに悟りて開国主義に変じ、あたかも佐幕家の宿論に投ずるが故に、これと共に爾後の方針を与にすると言えば至極もっともに聞こゆれども、当時の争いに開鎖などいう主義の沙汰は少しもない。佐幕家の進退は一切万事君臣の名分から割り出して、徳川三百年の天下云々と争いながら、その天下がなくなったら争いの点も無くなって平気の平左衛門とは可笑しい。ソレモ理屈のわからぬ小輩ならばもとより宜しいが、争論の発起人で頻りに忠義論を唱えて伯夷叔斉を気取り、またはその身躬(みず)から脱走にて世の中を騒がした人たちの気が知れない。勝負は時の運による、負けて恥ずかしいことはない、議論が中らなかっても構わないが、やりそこなったらその身の不運と諦めて、山に引っ込むか、寺の坊主にでもなって、生涯を送れば宜いと思えども、なかなかもって坊主どころか、洒蛙洒蛙と高い役人になって嬉しがっているのが私の気に食わぬ。さてさて忠臣義士も当てにならぬ。君臣主従の名分論も浮気なものだ。コンナ薄っぺらな人間に伍をなすよりも独りでいる方が心持ちが宜いと説を決めて、初一念を守り、政治のことは一切人に任せて、自分は自分だけのことを勉めるように身構えをしました。実は私の身の上に何の縁もないことで、いらざるお世話のようだが、前後の事情をよく知っているから、忠臣義士の成り行きを見るとツイ気の毒になって、意気地なしのように腰抜けのように、思うまいと思っても思われてたまらない。全く私の癇癪でしょうが、これも自然に私の功名心を淡泊にさせた原因であろうと思われます。 [福沢諭吉「福翁自伝(新訂)」(富田正文校訂)(岩波文庫)p294-6]

804 ある有用性の範囲、ある適切な仕事をわれわれ自身で見つけ出さなければならないということは、自由社会がわれわれに課す、もっとも困難な規律である。けれども、それは自由と切りはなしがたいものである。

[F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5,春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第5章 責任と自由 p118 (Or. p80)]

805 事物なり人間自身の能力なりのより上手な利用方法を発見することは、一個人がその仲間の福祉のためにわれわれの社会でなしうる最大の貢献の一つであり、またそのために最大限の機会を与えることが自由社会を他の社会よりもはるかに豊かにするにちがいない。この起業家的能力をうまく利用することは、自由社会において、もっともむくわれることの多い活動である。これにたいし、自分の能力を利用するある有用な方法の発見の仕事を他人にまかすものは、誰でも、より少ない報酬に甘んじなければならない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990(気賀健三、古賀勝治郎訳)第5章 責任と自由 p120 (Or. p82)]

806 ある特定の領域においてどんなに有能な人であっても、その才能から最大の便益をひきだせる人たちに自分の才能を知らせる能力をもっていなければ、自由社会ではその人物のサービスの価値はどうしても低い。中略自由社会では報酬は技術にたいしてではなく、技術の正しい利用にたいして与えられる。[F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990(気賀健三、古賀勝治郎訳)第5章 責任と自由 p120 (Or. p82)]

807 人の成就するいっさいのものが、その努力、技術、知恵にのみもとづくという確信は、だいたい誤っているであろうが、その確信は、人の気力と慎重さにもっとも有効な効果を生みやすい。そして成功者のひとりよがりの自慢がしばしば耐えがたくかつ不快であるとしても、成功がまったく人に依存するという信念は多分、実践的にみて成功する行動へのもっとも効果的な誘因であろう。これにたいし、自分の失策に関して、他人や周囲の事情を非難する傾向に陥ってしまえばしまうほど、ますます不機嫌になり、無能にもなっていく。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第5章 責任と自由 p121 (Or. p83)]

808 もしも同じ事件が多数の人の責任とされ、しかも同時に共同の同意行動の義務を課されることがないとすれば、その結果は通常、だれも実際に責任を負わないことになる。すべての人の財産は事実上だれの財産でもないのと等しく、すべての人の責任はだれの責任でもない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第5章 責任と自由 p122 (Or. p83)]

809 自由は、他の種類の平等とはなんの関係もないばかりでなく、多くの点で不平等をつくり出さざるをえないものでさえある。これは、個人的自由の必然的であり、またそれを正当化する一つの意味を持っている。もし、個人的自由の結果として、生活のやり方によって成功の程度に違いがあることが証明できなかったら、自由を擁護する主張のほとんどは消えてしまうであろう。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第6章 平等、価値およびメリット p126 (Or. p85)]

810 人びとは非常に異なっているという事実から、もし、かれらを平等に扱うならば、その結果、実際のかれらの地位は不平等になるにちがいないということになり、そして、かれらを等しい地位におく唯一の方法は、かれらを不平等に扱うことであるということになるであろう。それゆえ、法の前の平等と物質的平等とは、異なっているばかりでなく、たがいに対立する。そして、どちらか一方を達成することはできるが、同等に両方を達成することはできない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960)第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第6章 平等、価値およびメリット p128 (Or. p87)]

811 家族制度にたいして大部分の人が認める価値は、両親が一般に他のだれよりも自分の子供たちに満足のいく生活を用意することができるという信念に基づいている。このことは、特定の人びとが自分の家庭環境から受ける便益には差異があるであろうということだけでなく、その便益が、数世代を通して累積的に作用することを意味する。ある人の望ましい特性は、それが家庭環境の結果である場合に、そうでない場合よりも社会にとって価値が劣ると信じるどんな理由がありうるのか。[F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第6章 平等、価値およびメリット p132 (Or. p90)]

812 もし、不確定な目標を追求するにあたって、自分の知識と能力を用いるべきであるとするならば、人びとは、他人がかれらのなすべきであると考えるところによって、その行動の指図をうけるのではなく、かれらがめざす結果にたいして他人が付する価値によって導かれなければならない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第6章 平等、価値およびメリット p140 (Or. p96)]

813 自由主義は法がどうあるべきかについての主義であり、民主主義は何が法となるであろうかを決定する方法に関する一つの教義である。自由主義は、多数のうけいれたもののみが実際に法となるべきであることを望ましいと考えるが、そうだからといってこれが必然的によい法であるとは信じない。実際、自由主義の目的は、多数を説いて、ある原則を守らせることである。自由主義は多数者支配を決定の方法としてうけいれるが、決定が何であるべきかの権威としてこれをうけいれるもではない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第7章 多数決の原則 p150 (Or. p103)]

814 教条的な民主主義者は、できるかぎり多くの問題を多数決投票によって決定することを望ましいとみなす一方、自由主義者はこのようにして決定されるべき問題の範囲は、はっきりした限界があると信じる。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第7章 多数決の原則 p155 (Or. p106)]

815 自由についても同じくあてはまるように、民主主義の利益は長い眼で見てのみ現われるのであって、それより直接的な成果は他の政府形態の成果よりも劣ることは十分ありうる。 [F A ハイエク「自由の条件 I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第7章 多数決の原則 p158 (Or. p108)]

816 政府が多数者の意見によって導かれなくてはならないという概念は、その意見が政府とは独立であるときにのみ意味がある。民主主義の理想は、政府を導く見解がある独立で自生的な過程から出現するとの信念にもとづいている。したがってそれは多数者の支配からは独立した広汎な領域があってそこで個々人[F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990(気賀健三、古賀勝治郎訳)第7章 多数決の原則 p158 (Or. p109)]

817 多数意見が一部の人たちによってつねに反対されるからこそ、われわれの知識と理解は進歩する。 [FA ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第7章 多数決の原則 p159 (Or. p109)]

818 全員の努力が多数者の意見によって指導さるべきであるとか、あるいは、社会が多数者の水準に従うほうがよりよいものになるという考え方は、実は、文明を発達させた原理と正反対のものである。中略前進は少数者が多数者を納得させるところにある。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第7章 多数決の原則 p160 (Or. p110)]

819 成功した政治屋が権力を得たのは、かれがうけいれられている思想枠組みの中でのみ動き、慣例に従って考え、かつ論じるという事実によるのである。政治屋にとっては、思想の領域において指導者であろうとすることは、ほとんど言葉の矛盾であろう。民主主義におけるかれらの役割は最大多数の人びとのもつ意見が何であるかを見つけだすことであり、ある遠い将来において多数意見となるかもしれない新しい意見を広げることではない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第7章 多数決の原則 p163 (Or. p112)]

820 もし政治が可能なことに関する技術であるとするならば、政治哲学は、一見不可能なものを政治的に可能にする技術である。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第7章 多数決の原則 p166 (Or. p114)]

821 民主主義を永続させるためには、民主主義は自身が公正の源泉ではないことを認め、またあらゆる特定の問題において必ずしも通俗的な見解としてあらわれることのない公正の概念を認識する必要があることを認めなければならない。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第7章 多数決の原則 p169 (Or. p117)]

822 危険なことは、われわれが公正それ自体のために公正を確保する手段をまちがえることである。 [F Aハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第7章 多数決の原則 p169 (Or. p117)]

823 もしも、「資本主義がプロレタリアートを生みだしたのだ」とするならば、そうしたのは、その場合、多数の人びとを生き残らせ増殖を可能にしたからである。 [F A ハイエク「自由の条件I(The constitution of liberty, 1960) 第1部 自由の価値(ハイエク全集5, 春秋社1990 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第8章 雇用と独立 p171 (Or. p118)]

824 懐古すれば六十何年、人生既往を思えば恍として夢の如しとは毎度聞くところであるが、私の夢は至極変化の多い賑やかな夢でした。旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に詰め込まれて、藩政の楊枝をもって重箱の隅をほじくるその楊枝の先にかかった少年が、ヒョイト外に飛び出して故郷を見捨てるのみか、生来教育された漢学流の教えをも打遣って西洋学の門に入り、以前に変わった書を読み、以前に変わった人に交わり、自由自在に運動して、二度も三度も外国に往来すれば考えは段々広くなって、旧藩はさておき日本が狭く見えるようになって来たのは、何と賑やかなことで大きな変化ではあるまいか。 [福沢諭吉「福翁自伝(新訂)」(富田正文校訂)(岩波文庫)p315]

825 国風とは内容的・質的には雅に対置されるものであり、空間的には中央に対する地方、都に対する鄙の関係ということができよう。むろんわが国でも古来この意味で用いられている。

 その国風に別の意味が与えられ始めたのは、おそらく江戸時代の国学の世界において、漢詩に対して和歌の事を「国風(の)詩」とか「国詩」といったのによるもののようだ。それが国文学会で流用され... むろん誤用である。 [村井康彦「平安年代記」(京都新聞社、1997p145]

826 隆景上京のとき、算勘者なくてはと、或町人を撰びて、鵜飼新右衛門が下司に召具せり。下向の後總勘定せしに、八貫目の懸出し勘定に載せたり、鵜飼を始め何れも其才覚に感じ、其由披露して恩賞にこそ預からしめんと思ひしに、隆景却て大に怒り缺耗と言ふことはあるとも、懸出しと云ふことあるべきにあらず、天より降り地より湧出たるにもあるべからず、只人に遣はし、又は買物する時、價軽く与へつらん、軽く与へたらんには、隆景に恥を買はしむるなり、重く遣はして若干の缺耗とこそ算用すべきに、憎き奴原哉、頸を刎よと言はれけり、 [岡谷繁実「名将言行録」巻之六 小早川隆景(岩波文庫(1) p207]

827 隆景曰く、孝高の智は甚だ敏にして、是非を決するに造作なきこと利刀にて竹を二ツに割るが如し、天下に及ぶ者なし。然るに只才覚武略の誉はありて、思慮の誉はなし。我孝高の才智には遥に劣れり、孝高の思慮せずして即時に決断することを、我は返す返す指南して漸く孝高の即時の智に及ぶ。然れども世上の人我を却て思慮ありと言ふは、才鈍きにより即時に決断することならずして、思案を好む故なるべしと。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之六 小早川隆景(岩波文庫(1) p211

828 黒田長政、隆景に向ひ、分別は如何したるが能く候やと問ふ。隆景、別の子細なし。只久しく思案して遅く決断するが能く候と答ふ。長政、叉同分別にも肝要ありやと問ふ。隆景、之あり、分別の肝要は仁愛なり、万事を決断するに、仁愛を本として分別すれば、万一其思慮理に当らざることありとも遠からず、仁愛なき分別は才智巧みなりも、みな僻事なりと知り給ふべしと答へけり。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之六 小早川隆景(岩波文庫(1) p211-2]

829 晴信、信濃に兵を出せし時、鳩一羽庭前の樹上に来る。衆見て口々に私語て喜ぶ色あり。晴信其故を問ければ、鳩樹上に来る時、合戦大勝にあらざることなし、御吉例に候と答ふ。晴信、鳥銃を以て忽ち其鳩を打落して、衆の惑を解けり、鳩若し来らざる時は、衆疑阻する心ありて、戦危からんことを慮りしが故なり。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之七 武田晴信(岩波文庫(1) p236]

830 晴信出陣の前に、必ず内習あり、是孫武が七計廟算の遺意なり、軍果てて後、諸将を召て、其日の勝負の理を問ふ、諸将各其旨を言ふ、晴信之を聞き、可なる時は之を称し、不可なる時は之を戒む。故に一陣一陣功者と成て弓箭の味深く成りしとぞ。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之七 武田晴信(岩波文庫(1) p242]

831 現代社会では、強制にたいする個人の保護のための本質的な条件は、個人が財産をもつということではなく、そのどんな行動計画の遂行をも可能にする物質的手段を他の単一の主体がすべて独占的に支配すべきではないということである。中略重要な点は、個人が特定の人に依存しないように財産を十分に分散させ、それによって特定の人だけが個人の必要とするものを与えるとか、特定の人だけが個人を雇うということのないようにすることである。 [F A ハイエク「自由の条件II(The constitution of liberty, 1960) 第2部 自由と法(ハイエク全集6, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第9 章強制と国家 p14 (Or. p140)]

832 課税の領域外でいえば、政府による強制の使用を正当化するものは、より苛酷な強制の防止ということだけを認めるというのが、おそらく望ましいであろう。 [F A ハイエク「自由の条件II(The constitution of liberty, 1960) 第2部 自由と法(ハイエク全集6, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第9 章強制と国家 p20 (Or. p144)]

833 一般的にいえば、この意味で、私的領域内での行為に関する道徳性は、国家の強制的支配の適切な対象ではないということである。おそらく、自由な社会を自由でない社会と区別するもっとも重要な特徴の一つは、まさに、他人の保護される領域に直接影響を与えない行為の問題ついては、実際に多くの人がももっている規則は自発的な性質のものであり、強制によって実施されるものではないということである。中略道徳的悪を撲滅しようとして強制を用いる決心をした人たちのほうが、悪いことをしようとする人たちよりも多くの害と苦難とをもたらしたと実際いえそうである。 [F A ハイエク「自由の条件II(The constitution of liberty, 1960) 第2部 自由と法(ハイエク全集6, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第9 章強制と国家 p22 (Or. p146)]

834 現代における個人的自由は、十七世紀のイギリスより以前に遡ることは、ほとんど不可能である。中略イギリスが法の優越性についての中世の一般的な考え方を比較的多く保持していたので、イギリスは自由に関して近代的な成長を開始することができたといえるかもしれない。 [F A ハイエク「自由の条件II(The constitution of liberty, 1960) 第2部 自由と法(ハイエク全集6, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第11章法の支配の起源 p45 (Or. p162-3)]

835 キケロは実に現代の自由主義の主要な権威者となり、われわれは法のもとにおける自由をもっとも効果的に法文化することに関してかれに負うところが多い。 [F A ハイエク「自由の条件II(The constitution of liberty, 1960) 第2部 自由と法(ハイエク全集6, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第11章法の支配の起源 p51 (Or. p167)]

836 憲法の体系は国民の意志の絶対的な制限を意味するものではなく、即時的な目的を長期的なものに従属させることを意味するに過ぎない。 [F A ハイエク「自由の条件II(The constitution of liberty, 1960)第2部 自由と法(ハイエク全集6, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第11章法の支配の起源 p69 (Or. p181)]

837 法の支配は完全な適法性を前提としているが、これだけでは十分ではない。もし、ある法律によって、政府に対してその好むままに活動する無制限な権力が与えられたとしたら、正負の活動はすべて適法であろうが、それは法の支配のもとにあるとは明らかにいえないであろう。したがって、法の支配とは立憲主義以上のものである。それは、すべての法律がある原理に従うことを要求する。 [F A ハイエク「自由の条件II(The constitution of liberty, 1960) 第2部 自由と法(ハイエク全集6, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第14章個人的自由の保障 p104(Or. p205)]

838 大事な点は、裁判所の決定が予測できるということであり、それらを定めるすべての規則が言葉で述べることができるということではない。裁判所の行為が、既存の規則と合致していると主張することは、それらすべての規則が明示されていて、多くの言葉であらかじめ記されていると主張することではない。後者を主張することは、まさに、達成不可能な理想のために努力することである。明白な形では決して表すことのできない「規則」がある。それらの多くが認識可能であるのは、それらが首尾一貫した予測可能な決定を導くからだけのことであって、そしてせいぜい「正義感」の表現として、それによって導かれる人びとには、わかるであろう。心理学的には、法律上の推論は、もちろん、明白な三段論法からなるのではなく、大前提は明白でないことが多い。結論の依拠する一般的原理の多くは、成文化された法体系のなかには暗黙にふくまれているにすぎず、そして、それは裁判所によって発見されなければならないものであろう。しかし、これは法律上の推論の特質ではない。おそらく、われわれが成文化できる一般化はすべてみな、なお一層高度な一般化に依存しており、それを、われわれは明白には知らないが、それにもかかわらず、われわれの心の働きをしはいしている。われわれは、いつもわれわれの決定が依存しているそれらの、より一般的な原理を発見しようと努めるけれども、これはその性質上、決して完成することのできない無限の過程である。 [FA ハイエク「自由の条件II(The constitution of liberty, 1960) 第2部 自由と法(ハイエク全集6, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第14章個人的自由の保障 p109(Or. p209)]

839 すべての規則は、支配するものを含めて、すべてのものに平等にあてはまるというこの事実こそ、どんな抑圧的な規則の採用をほとんどありえないものにするのである。 [F A ハイエク「自由の条件II(The constitution of liberty, 1960) 第2部 自由と法(ハイエク全集6, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第14章個人的自由の保障 p111(Or. p210)]

840 一般に、自由社会では、政府は強制の独占を享受するが、政府は強制についてだけ独占を享受して、ほかの面ではすべてあらゆる個人と同じ条件のもとで活動すべきものとされる。 [F A ハイエク「自由の条件II(The constitution of liberty, 1960) 第2部 自由と法(ハイエク全集6, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第15章経済政策と法の支配 p127(Or. p223)]

841 自由体制のもとで、価格と数量の統制を、まったく排除しなければならないとするのは、このような手段によってさまたげられる経済的利益のほうが、他のものよりも一層重要であるからでえはなく、この種の統制が規則に従って実施されることが不可能で、その性質上、自由裁量的かつ恣意的にならざるをえないからである。 [F A ハイエク「自由の条件II(The constitution of liberty, 1960) 第2部 自由と法(ハイエク全集6, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第15章経済政策と法の支配 p135(Or. p228)]

842 晴信曰く、弓箭取様のこと、四十歳より内は、勝つ様に、四十歳より後は負けざる様に取るべし。但し二十才の内外にても、我より小身なる敵には、負けぬ様にして、勝ち過すべからず、大敵には、猶以て左の通なり。押詰て能く思案工夫を以て位詰にし、心長く後途の勝を、肝要にすべしと。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之七 武田晴信(岩波文庫(1) p247]

843 凡そ士たる者、百人の中九十九人に誉めらるる者は、善き者にあらず、軽薄者か、才覚者か、盗人か、佞人か、此四つの内なりと。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之七 武田晴信(岩波文庫(1) p250]

844 此役(=長篠合戦)、昌景先手に在りて、敵仕寄を付るを見て居しが、一人武者真先に進みて、柵杭は斯く打つもよ、結び様は斯くこそすれと、自身に男結にしむるを見て、あ武者は尋常者にあらず、夫れ打てと下知しけり。後に聞けば木下藤吉郎秀吉とは知れてけり。 [岡谷繁実「名将言行録」巻之九 山県昌景(岩波文庫(1) p306]

845 この変化(=社会主義の衰退)の理由はさまざまである。ひところもっとも影響力のあった社会主義学派に関するかぎり、われわれの時代の「もっとも偉大な社会的実験」の例が決定的なものであった。すなわち、マルクス主義は西側世界ではロシアの例によって葬られたのである。しかし、長いあいだ、ロシアで起ったことが、伝統的な社会主義綱領の体系的適用の必然的結果であったことを理解する知識人は比較的少なかった。[F A ハイエク「自由の条件III(The constitution of liberty, 1960) 第3部 福祉国家における自由(ハエク全集7, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第17章社会主義の衰退と福祉国家 p5(Or. p255)]

846 集産主義的社会主義の特徴的方法を擁護するものは、西側にはほとんど残っていないとはいうものの、その究極の目的は、その魅力をほとんど失ってはいない。 [F A ハイエク「自由の条件III(The constitution of liberty, 1960) 第3部 福祉国家における自由(ハイエク全集7, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第17章社会主義の衰退と福祉国家 p7(Or. p256)]

847 方法よりもむしろ目的の点から政府の機能の限界を定めようとする人びとは次のような立場におかれることになる。すなわち、結果が望ましいというに過ぎないように思われる国家的活動に反対するか、あるいは特定の目的にとっては有効であるが、全体の効果としては自由社会を破壊するような手段に反対する一般的規則をなんらもたないことを認めさるをえないことになるかである。中略政府の新しい福祉活動の多くが自由にとって脅威となる理由は、それらが単なるサービス活動として提供されるとしても、実際には、政府の強制力の行使をふくみ、ある分野において排他的な権利を要求することのもとづいているということにある。

[F A ハイエク「自由の条件III(The constitution of liberty, 1960) 第3部 福祉国家における自由(ハイエク全集7, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第17章社会主義の衰退と福祉国家 p10(Or. p258)]

848 多くの場合、われわれの既存の知識と権力を徹底的に利用することに熱心な人たちは、かれらの用いる方法によって知識の将来の成長をもっともさまたげる人たちであることが多い。 [F A ハイエク「自由の条件III(The constitution of liberty, 1960) 第3部 福祉国家における自由(ハイエク全集7, 春秋社1987(気賀健三、古賀勝治郎訳)第17章社会主義の衰退と福祉国家 p13(Or. p261)]

849 市民のある種の必要が、単一の官僚的機関の独占的事業となった場合は、その機関を民主的に管理すれば市民の自由を効果的に保障することができると考えるのは、まったくの幻想である。 [F A ハイエク「自由の条件III(The constitution of liberty, 1960) 第3部 福祉国家における自由(ハイエク全集7, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第17章社会主義の衰退と福祉国家 p14(Or. p261)]

850 社会の多数者にとって適当な所得と映らないもの以外、いかなる報酬をも認めようとせず、比較的短期間に財産を築くことを、ある種の活動にたいする正当な報酬形態とは認めない社会が、長期的に企業制度を保持できるかどうかは疑わしい。 [F A ハイエク「自由の条件III(The constitution of liberty, 1960) 第3部 福祉国家における自由(ハイエク全集7, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第20 章 課税と再分配 p92(Or. p320)]

851 知識というのは、ある代価を支払って手にいれることのできるものでありながら、それをまだもっていない人たちは、その有難さをしばしば認めることのできない財として、おそらく最高のものである。 [F Aハイエク「自由の条件III(The constitution of liberty, 1960) 第3部 福祉国家における自由(ハイエク全集7, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第24 章教育と研究 p165(Or.p376)]

852 恵まれた家庭環境の利益を享受する一部の人がいるということは、社会にとっての一つの資産であり、平等主義の政策はこれを破壊することができるが、不等な不平等が表面に現われていなくては、この資産は利用されえないのである。 [F A ハイエク「自由の条件III(The constitution of liberty, 1960) 第3部 福祉国家における自由(ハイエク全集7, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第24 章教育と研究 p178(Or. p386)]

853 結論としてヴィルヘルム・フォン・フンボルトの言葉ほど適切なものを知らない。この言葉はジョン・スチュアート・ミルがいまから100年前に、その著作『自由論』の冒頭にかかげたものである「本書に展開されているいかなる議論も直接的に合致する偉大にして主要な原則は、人間がもっとも豊かな多様性において発展することが絶対的かつ本質的に重要だということである。」 [F A ハイエク「自由の条件III(The constitution of liberty, 1960) 第3部 福祉国家における自由(ハイエク全集7, 春秋社1987 (気賀健三、古賀勝治郎訳)第24 章教育と研究 p188(Or. p394)]

854 丸谷 ずいぶんたってから角田さんのお宅に別件で電話したら、角田さんはお留守で奥さまが、ぼくに書評のお礼をおっしゃってね。「女が好きだとお書きくださいましたが、本当に角田はそのとおりなのでございます」って。 [丸谷才一・山崎正和「日本史を読む」(中公文庫2001、原書1998p64-5]

山崎 『源氏物語』が成立したのは藤原時代じゃなくて、室町になって思い出されたときに成立したというきがするのです。

丸谷 現在のわれわれと同じ意味での『源氏物語』の読者が、東山時代に誕生した。

山崎 ええ。それまではおそらく、藤原時代に『源氏物語』を読む人たちは、われわれが週刊誌のゴシップを読むがごとく読んでいたと思うんですよ。

丸谷 猥本と思って読んでた。(笑)

山崎 そこまでは言わないけれど。

丸谷 いや、猥本という言い方は乱暴だけれども、いまの国文学者の解釈を見ていると、本当に読みが浅い(笑)。あれは、ほのめかしの言葉の連続で書いてあるわけだから、当時の人には、そのほのめかしがいちいちピシピシ身に迫る言葉だったわけでしょう。だから、大変な挑発力がある。そこのところを、いちいち上品に上品にとらなきゃと国文学者は思っているんですね。その上品さが東山時代に成立したわけです。 [丸谷才一・山崎正和「日本史を読む」(中公文庫2001、原書1998p163-4]

856 山崎 お茶の水界隈で明治大学の学生が警察と乱闘をやっている最中に、すぐ横の山の上ホテルの喫茶店では男女が逢引きをしている。そういう不思議な光景を見て、「あ、室町時代とはこういう時代だったんだ」とわかったんですよ。 [丸谷才一・山崎正和「日本史を読む」(中公文庫2001、原書1998p172]

857 山崎 福沢は若い善雄に向かって、「意見だの感想だのを書く文章は、簡単である。ものの姿をありのままに描写するような文章を勉強せよ」。たとえば、「人力車というものを、見たこともない人にあたかも手に取るごとく伝える文章から勉強せよ」と言ったといいます。余談ですが、これは現代の日本の国語教育の中でもっとも欠けているものだと、私がかねがね憂慮している点であります。 [丸谷才一・山崎正和「日本史を読む」(中公文庫2001、原書1998p327]

858 山崎 遊廓の世界、遊びの世界というのは、全体がフィクションです。フィクションは、そのなかに極めて厳しいルールがないと、あらゆる遊びごとがそうであるように成り立たないわけですね。われわれのやるゲームというのは、トランプであれスポーツであれ、実生活よりよほど厳しいルールに従っている。実生活ではわれわれはルールを破りたがりますが、ゲームではルールを破ることは楽しみじゃない。むしろ不愉快なんです。そういう構造が成立している世界それに名前を付けたのが「いき」ですがそういう「いき」のルールが貫徹している世界があって、そのなかでつくられた文化が都市文化全体を象徴していたんですね。 [丸谷才一・山崎正和「日本史を読む」(中公文庫2001、原書1998p286-7]

859 彼等が視た全てのものが、一々別の名を受けた。例えばサンスクリットに典型的な形で見られるような、共通の要素を基とし、それに他の要素を色々に組み合わせて新しい語を造る、いわゆる合成語は、個物を絶対的に尊ぶアラビア人の精神そしてより一般にはセム人の世界受容の根本的態度に全く反するものであった。彼らの眼の及ぶ限り、あらゆるものは独立した名称を与えられたのである。 [井筒俊彦「イスラーム思史」(中公文庫1991、原書1975p14]

860 『日本書紀』に見える雄略天皇は、あくまでも仁徳に始まる中国的な王朝の興亡・盛衰物語というフィクションのなかの一登場人物にすぎない。それに対して、辛亥銘鉄剣に見えるワカタケルノ大王は、明らかに5世紀後半に実在した倭国王である。中略倭王武と同一人物を指していると考えて大過ないであろう。

 だが、前者(雄略天皇)が後者(ワカタヶルノ大王=倭王武)をモデルとしているという関係が成り立たないことはないが、両者を単純に同一人物として結び付けるのは大いに疑問であるといえよう。そもそも両人は、属する世界、あるいは活躍する次元が決定的に異なるのである。

 中略雄略とワカタヶルノ大王とは一応切り離して考えるべきであろう。たとえば、前者の名前は、正確にはオオハツセノワカタケなのであって、後者が、オオハツセを冠しない、たんにワカタヶルという名前(ワカタヶではない)であることからも明らかなように、両者は名前自体も微妙に異なるのである。 [遠山美都男「天皇誕生日本書紀が描いた王朝交替」(中公新書1568, 2001p184-6]

861 ただ、特に神秘主義的な内容の新しい宗教に惹きつけられることの多い今の若者たちに、ある特定の教えに身も心もなげうって奉仕してしまう前に、たとえば善光寺や伊勢神宮を、一度は訪ねてみてほしいなとお願いしたいのです。しょせん観光地じゃないかと頭からバカにせず、仏教の聖地はインドに行かなきゃないんだなどといきなり海外に飛び出さず、まず身近な神様や仏様に「会って」みてほしい。何百年ものあいだ、今のわたしたちのような豊かさに囲まれてもおらず、基本的な教育程度も高くなく、病気や災害で簡単に命をとられてしまう厳しい人生をおくってきた無数の善良な人々の信仰を集め、心の支えとなってきた神様仏様の持つ底力を、小賢しくあなどってはなりません。

 そこには必ず、「かたじけなさ」を感じさせるものがあるはずなのです。逆に言えば、そして極論を言うならば、そうした場所のどこへ行っても、それこそ氏神さまへ行っても近所のお地蔵さまを見てもお稲荷さんの前を通りかかっても、爪の先ほどの「かたじけなさ」も感じることのできない人が、いくら勉強ばっかりしてダライ・ラマ14世に会いに行ったって、時間の無駄だよとミヤベは思います。それぐらいならいっそ、生涯「宗教」(民族宗教も含む広い意味で)と無縁の生活をした方が、自分自身のためにも世の中のためにも、ずっと平和でありましょう。 [宮部みゆき「平成お徒歩日記」(新潮文庫, 2001p222-4]

862 特定の天皇を指して「実在か否か?」を議論することにどれほどの意味が見いだせるでしょうか、はなはだ疑問です。そのような単純な二者択一論を超えて、歴史的事実に接近するより有効な枠組みを模索することが急務であり、それこそが意義のある仕事なのではないでしょうか。 [遠山美都男「天皇誕生日本書紀が描いた王朝交替」(中公新書1568, 2001p245-6

863 シャフラスターニー(Shahrastani) が言う通り、「書かれたテクストには限りがあり、日常の出来事には限りがない。そして限りあるものが限りなきものを包含できるはずがないのだ」(as-Mitalwa-n-Nihal)。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第一部イスラーム神学p34]

864 イマ-ム・ル・ハラマインは、凡そ実体というものは偶有なしにはあり得ないと主張するのである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第一部イスラーム神学p103]

865 (イマ-ム・ル・ハラマインの代表する正統派においては、内部言語は存在するとされる)実際の単語や身振りや文字等によって外化される一歩手前の心裡のもの、それを内部言語と呼ぶのである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第一部イスラーム神学p123]

866 西欧の哲学界にAlgazel として古くから知られていたアル・ガザ-リ-(或はアル・ガッザーリー)は本名Abu Hamid b. Muhammad as Ghazali(al-Ghazzali) といい、西暦1058 年ペルシャ、ホラーサーンのトースの附近の小村ガザーラに生れた。幼時、彼はホラーサーンで法学の基礎的知識を得、後ニーシャープールに来てイマ-ム・ル・ハラマインの門下に入った。当時イマ-ム・ル・ハラマインは令聞四海に布くとも言うべき状態で、その門下には天下の俊才が集まっていたが、ガザーリーは忽ち同輩先輩を凌いで、論証法では誰もよくこれに敵するものがいなくなってしまった。老師イマ-ム・ル・ハラマインは、年若いこの天才に代講させ、自分は微笑してじっと聴き入っているのを常としたと言われている。

 1085 年=回暦478 年、師が死ぬと、数年間彼は宰相ニザーム・ル・ムルクの後援の下で学業にいそしんだ。彼がいわゆるイスラーム哲学、特にそのアリストテレス学派の思想を専心研究したのはこの頃のことである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第一部イスラーム神学p133-4]

867 ガザーリーの批判的精神は、悟性的判断の全く疑いの余地ない自明性の中にも、永らく安閑としていることを許さなかった。彼は悟性的認識の確実性をも、もしかしたら絶対的でないかも知れぬと疑いはじめた。─中略─我々が悟性の至上権を認めているこの現在の状態が、また目覚めて後でなては気付かぬ夢であるかも知れぬことを、誰がよく否定できるであろうか。そしてその新しい状態とは、─中略─死であるかも知れないのだ、「人間は眠っている。死して初めて目覚めるのである」というムハンマドの言葉にもある通り、現世の生活は一片のはかない夢であるかも知れないのだ。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第一部イスラーム神学p139-40]

868 次第に悟性そのものについて反省を重ねて行った彼は、悟性界は一の明確に規定された世界であって、悟性は人間精神の全体に権威を有するのではなく、却ってその権威には確然たる制限があることを信じるに至った。そして、この悟性の絶対的主権が認められる領域を「知」と名づけた。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第一部イスラーム神学p140]

869 ガザーリーは知の世界を最も明澄な世界、疑おうとしても疑い得ない確実な判断によって論理的に一分の隙もなく構成された世界に限定した。知は厳密な証明によって、何人にとっても同様に現れるものでなくではならぬ。それは推測や臆測の絶対に入り込む余地の無い、思惟の必然性にもとづいた領域でなければならない。─中略─故にガザーリーに在っては、人々の間に異論のあるようなものは全く知の世界からは排除されて悉く「信」の世界に入れられてしまう。だから思弁的神学や形而上学は悟性的であるようであるが、実は信の世界に属するのである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第一部イスラーム神学p141]

870 敬うべき八百万の神様がおわしまし、尊ぶべき仏様もたくさんおわしまし、お祀りすべきご先祖様もたくさんいますというのが、この国の習わし。実はこれ、がっちりと強固で揺るぎない信念を与えてはくれるものの、実は融通がきかず凶暴な一面も併せ持つ欧米中東の絶対神信仰に比べると、とても穏和で温かい「敬虔」のあり方なのではないかと、近頃ミヤベはつくづく考えるものであります。 [宮部みゆき「平成お徒歩日記」(新潮文庫, 2001p203-4]

871 ガザーリーは悟性の権威と信仰の権威とを比較して、どちらが上であるとか大であるとかは言わない。ただ、この二つは本質的に違ったものであると言う。両者を混同することは絶対に許されない。知の世界は飽くまで知の世界であり、信の世界は何処までも信の世界である。ところが世の思弁神学者や哲学者は明らかに二つを混同している。そこに彼らの救い難い欠陥が存するのである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第一部イスラーム神学p142]

872 悟性は知の世界においてのみ権威を持ち、宗教の世界、信仰の領域では全く何らの権威を持たない。それ故、思弁神学が思弁によって信仰を援護しようとするものであることを標榜するなどは、笑止の限りなのである。─中略─神の唯一性を論理的に証明してみせれば、異端者が一躍して正しい信仰に入って来るであろうか。信仰を知的に理解した人が、本当に信仰のある人であるか。医者は自ら必ずしも健康ではないのではないか。

 物の根拠や原因を知的に定義して見せる人が、必ずしもその物に心から親しんでいる者ではない。「酔っ払いは、酔っ払うこととは何ぞやという定義もできはしないし、自分が酔った『根拠』を論理的に把握してもいない。それでもやっぱり彼は酔っ払っている」

 信仰もこれと少しも違わないのである。信仰を論理的に演繹して見ても何になろう。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第一部イスラーム神学p143-4]

873 コーランの初期の部分は─中略─現世にたいする深いペシミズムに満ち溢れている。つまり現世は根源的に悪と見られているのである。

 ところが西暦622年、教祖がメディナに遁行してからは、事態は全く予想外の方向に好転し、ムハンマド自身も意外とするほどイスラームは急速に隆盛の一途を辿り始めた。そして、それと同時に「天啓」の性質も次第に積極的現世肯定的となり、さらには著しく政治的性格すら帯びて来るに至った。[井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第一部イスラーム神学p173-4]

874 科学は別として、一般に思想という曖昧な言葉で呼ばれているものは、敵との関係においてのみ、敵と味方とを含む全体性の一部分としてのみ、従って、敵が生きた力を持っている限りにおいてのみ、生命と意味とを持つことが出来る。強大な敵との衝突が発する火花の中にだけ、それは生きることが出来る。 [清水幾太郎「倫理学ノート」(講談社学術文庫1437, 原著1968-71「思想」発表)p24-5]

875 (歴史にいう「貞観の治」が始まった。)

 政治が安定して社会が栄えると、人々は落ち着いて静かに「死」を考える。命の値段が高い支配階級の間で、俄かに仏教信仰の熱が高まった。坊主が忙しくなる。三蔵法師玄奘が仏教を求めて、はるばる印度へ出掛けた。

 仏教的な「死」を考えるようになれば、厭でも「地獄」の心象が膨れ上がる。閻魔大王の権威が、皇帝を圧する程に強くなった。この世で犯罪者の数が減って、悪党どもが大人しくなっただけ、あの世から越境して来る鬼どもの数が増えて、悪鬼が暴れ出す。

 鬼どもは調子に乗って、皇居の奥御殿にまで侵入した。突然大唐皇帝太宗李世民が、原因不明の奇病に取り憑かれたのである。 [安能務「隋唐演義(下)」p68-9(講談社文庫Y648, 1999、原書1997]

876 ギリシャ哲学は主としてアリストテレス、プラトン、プロティノスの思想が三潮流となって、それらが殆ど同時にイスラーム思想界に流入してきた。中略イスラーム哲学に輸入された形においては、アリストテリスムもプラトニスムも新プラトニスムも純粋なギリシャのそれではなく、いずれも一種の折衷説として発展した。なかでも著しい特色を示したのは、イスラームの宗教的主題と取り組んだ新プラトン主義化されたアリストテリスムでこれが12世紀以後西欧のキリスト教のスコラ哲学に移入されて西洋哲学史に大きな影響を及ぼすに至るのである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p218]

877 イスラーム思想に移されたアリストテリスムのこの新プラトン的潤色はいわば一つの文献学的偶然の結果に過ぎないけれども、また他面、このような解釈によって始めてアリストテレスの論理的知性が、本質的にセム的な一神教であるイスラームの宗教的感情に受容され易くなったことも無視できない。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p224]

878 キンディーはイスラーム哲学史の一番最初に出て来る哲学者である。しかも彼は純粋なアラビア人であった。このようなことをわざわざ指摘するわけは、イスラームの哲学者の中に、本当のアラビア人は意外に数が少ないからである。中略アラビア哲学の代表的人物は大多数ペルシャ人である。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p229]

879 This book tries to illuminate the nature of language and mind by choosing a single phenomenon and examining it from every angle imaginable. That phenomenon is regular and irregular verbs, the bane of every language student.

  At first glance that approach might seem to lie in the great academic tradition of knowing more and more about less and less until you know everything about nothing. ... Seeing the works in a grain of sand is often the way of science...  [S Pinker, Words and Rules (Basic Books, 1999) ix]

880 律令制からもっとも遠い場所にあるかのような戦国大名が、職はおろか、官・位まで具有した存在であるという点に、問題の本質が隠されている。直截に言うと、戦国大名とは、天皇から官位を任命されて初めて制度的に完結する権力であった。 [今谷明「戦国大名と天皇室町幕府の解体と王権の逆襲」(講談社学術文庫1471、原書1992) 第二章 官位をめぐる相剋p50-1]

881 故田中稔氏の研究によれば、中世前期において、侍(武士身分)と凡下(庶民)と法制的に(刑罰上)区分ないし差別する場合、権力はおおむね律令の六位という線を目安とし、僧侶神官にもそれを適用していたという。侍品(侍に準ずる身分)なる概念が生まれるのはそのためであるが、このように、律令官位の体系と理念は、法制刑事の世界に依然として、生き延びて(形骸化しつつも)きたということになる。

 荘園制の浸透によって国・郡・郷の地方行政のわく組が実体を失ってなお廃絶しなかったことも、右のことと深くかかわっている。武士の世界に職とは別系統の官位の観念が牢固として続いてきたことが、天皇の戦国期の浮上につながったのである。 [今谷明「戦国大名と天皇室町幕府の解体と王権の逆襲」(講談社学術文庫1471、原書1992) 第二章 官位をめぐる相剋p137]

882 戦国大名の文化的な動向として注目されるのは、宸筆の古典籍のような天皇関連の文物を珍重し、たえず中央に求めるという傾向がみられることである。中略その彼らの心理の深層にあるものは、中央の文化なり文明に対する(技術も含めて)強烈な劣等意識ではなかろうか。そしてこのコンプレックスこそ、天皇への特別な、一種屈折した思いであったと考えられるのである。 [今谷明「戦国大名と天皇室町幕府の解体と王権の逆襲」(講談社学術文庫1471、原書1992) 第四章 京をめざしてp208-9]

883 彼(ファーラービー)の説くところによると、普遍者は「離在性」(esse separatum) を持たない。また、普遍者は常に個物と癒合してのみ実在するのであるから、認識論上から言っても、知性と感性との両者によって同時に把握されのであって、キンディー説くように「個物は感性によって、普遍者は知性によって認識される」という命題は成立しないのである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p242]

884 (ファーラービーの「理想国家論」から)

神を定義することが不可能であることについて。

神は言葉によって、その(神の)本質を成立させている数々の要素に分解することはできない。という訳は、言葉によって神の概念を規定しようとすれば、どうしてもその言葉は神の本質を成すものの一部か、或はせいぜいその内の幾つかの部分を指し示すに過ぎないからである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p249]

885 純正同胞会の通俗的新プラトン主義は回教徒一般の嗜好に投じてたちまちのうちに東方イスラーム諸国全土に弘まり、さらに驚くべき速度でもって西進し、西暦十一世紀の初頭には早くもスペイン及び北アフリカの思想界を新プラトニズムの色彩にぬりつぶすまでに至った。中略学界一般のこのような趨勢は単にイスラーム思想のみならず、これと密接な関係にあったスペイン・ユダヤ哲学をも支配し、さらに進んで西欧哲学の動向にも重大な影響を与えたのである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p262-3]

886 彼(イブン・スィーナー980-)が出て始めて、それまで単に部分的に発達していたに過ぎない哲学的な思考が、一つの大きな、そして数学的な美しさを持った組織となったのである。イスラームのスコラ哲学は彼をまって、体系化された。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p264]

887 アヴィセンナはファーラービーとラーズィーの両方の学風を一身に代表し、抽象的思想の側面と、具体的実験的研究の側面とのいずれにおいても優秀な才能を示した。この意味において彼は正に「イスラーム逍遙学派の王者」と称されるに相応しいのである。中略『医学典範』の史的重要性については今さら言うまでもない。この大著は東洋諸国はもとより、西欧においてすら近世に至るまで全医学界を実際に支配したのである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p262-3]

888 哲学者としてのアヴィセンナが終始最大の関心を寄せたものは「存在」の問題であった。存在と存在者これこそアヴィセンナの全哲学の中核である。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p263]

889 アヴィセンナの思想においては、質料と形相はともに実体である。中略なぜならば、形相はいわばそれを容れる物を基体として、それに内在するのであるが、基体にあたる物それ自体は、自分の中に内在する形相なしには存立し得ないからである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p278-9]

890 時間は我々の表象の作用であり、純粋関係であって、決して実在ではない。われわれは何か一つの存在者の始を考えるとき、必ずその前に何かを予想せざるを得ない。我々は物をそういう風に表象するようにできているのである。中略この『前に在るも何ものか』、表象がどうしてもそれから離れることのできないもの、それがあたかも実在するかのごとく考えられるに至るのである。これがすなわち時間である。(ガザーリーTahafut) 

中略

 空間も時間も共に、色々な物の相対的な関係に過ぎぬ。すなわち、それらは色々な物と共に創造されたもの、或は、神が我々の裡に創造したところの概念間の関係である。[井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p306-7]

891 アヴェロエスこそはイスラームにおけるアリストテリスムの最大の代表者であり、その徹底した理性の行使にかけては恐らくトマス・アクイナスを除いては東西のスコラ学界にこれと比肩すべきものがないとまで言われた人で、彼のアリストテリスムから見れば、かのアヴィセンナの思想すら未だ不純、不徹底としか見えなかった位であるから、ガザーリーの哲学批判の如きは粗笨幼稚な素人芸と思われたのも寧ろ当然であろう。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学東方イスラーム哲学の発展p314]

892 この東と西の代表者Avicenna Averroes(1126-1198) とを知れば、イスラーム哲学の全貌は殆ど明らかになったと見て差支えないのである。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学西方イスラーム哲学の発展p327]

Van den Berg The incoherence of the incoherence (Oxford)

893 この伊勢屋の建物は菊坂上通りに現存する。一葉ゆかりの建物がほとんど消えたなかでまことに貴重である。中略

「私どもの商売ではお客様のことは口外しないのが鉄則ですが、一葉さんはご自身で日記に書いておられますのでね」と持ち主の永瀬夫人はほほえんだ。座敷の小机の上に、かってのお客様は全集になって飾られてあった。 [森まゆみ「一葉の四季」(岩波新書715, 2001p83]

894 彼ら(アルモラヴィド朝)は西暦十一世紀=回歴五世紀に起ってアフリカを占領し更にスペインに侵入してその一部を領し、強固な王朝を建てた。ところが、元来すぐれた文化の伝統に育まれていなかった彼らは、僅かな年月のうちに道徳的には堕落の途に陥り、知的生活においては非常に狭量で浅薄な思想を振りまわすようになった中略信じることだけが我々の義務だ。色々問うことは異端である」という有名なマーリク・イブン・アナスの言葉が彼らの根本信条であった。コーランは、そのあるがままに信じるべきであって、これを詮索したり解釈したりすべきではない。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学西方イスラーム哲学の発展p335]

895 そもそも哲学とは何であろうか。哲学とは宇宙を神の制作したものとして、その構造を反省的に研究し、それによって、製作者である神を識るに至ろうとするものである。哲学の唯一の真な目的はここにあらねばならない。かくて、次のようなキヤース(=論理的推論、類推)が成立する。

(一)宗教法は、宇宙を考察してもって、その製作者たる神を識る事を強制的行為として命じている大前提

(二)然るに。宇宙を観察、反省し、それによって神の知に達しようとするものは哲学である小前提

(三)故に哲学は宗教法によって強制的なものと認められる結論[井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学西方イスラーム哲学の発展p373]

896 聖文と哲学上の主張とが互いに衝突するときには、一方を譬喩的に解釈するのである。両者が矛盾するように見えるのは全く外面上のことに過ぎず、実はそのようなことはあり得ないのであるから、一方を譬喩的に解釈すれば、両者は必ず深い意味において一致するはずである。

 一方を譬喩的に解釈するというならば、それは哲学上の結論の方か、聖文の方かのいずれかであるが、元来、哲学における証明は、その基礎を合理的な疑うべからざる明澄なものの上に置き、いわば真理を裸のままで示すものであって、譬喩とは全く縁が無い。これに反し、聖文は誰でも認めている通り、盛んに譬喩を使う。従って本性上、譬喩的に解釈される必要があるのである。故に、論証的結論と聖文との間に外面的矛盾衝突が生じた場合には、譬喩的解釈は聖文の方に適用されねばならない。

 ここに注意を要するのは「譬喩的解釈法」とは、決して人が聖文を勝手気儘に解釈することではないということである。それは、必ず、アラビア語の慣用に従いつつ、ある一つの表現の意味を、本来の意味から転位させて行く方法である。従ってそれは最高最深の知識ある者にだけ許される。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学西方イスラーム哲学の発展p375-6]

897 最高最深の知識を有する者とは誰であるか。また、それ以外の、譬喩的解釈を行使することを許されない人々とは何であるか。ここにイブン・ルシドの有名な人間三段階説が現れるのである。中略その最下位は一般的俗人であり、中間は神学者であり、最高は哲学者である。

 彼の見解によれば、最高最深の知識をもつ上位の哲学者と、従順敬虔で宗教心の深い信者である下位の一般民衆のみが完全な精神であり、人間の真の二範疇であって、中間の神学者は憐れむべき「病人」にすぎない。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学西方イスラーム哲学の発展p376-9]

898 一般民衆は、哲学によって得た真理そのままでは、余りに光が強烈で、却って眼が眩惑されてしまう。故にこの真理の一部なりとも民衆に与えるには、まず裸の真理に象徴の言葉の衣を被せなければならぬ。この仕事をするのが予言者なのである。そしてこれは哲学者にも俗人にも絶対にできない仕事である。そしてここに予言者の特殊な位置が認められる。予言者とは哲学的最高の真理を、一般民衆にも眩惑の危険なしに近づくことができるように感覚的象徴的外衣を被せることを天与の任務とする極めて優れた人にほかならない。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学西方イスラーム哲学の発展p381-2]

899 哲学者は、哲学者であるかぎり、他のなにものにも頼ることを要せず、宗教すら必要としない。なんとなれば哲学的真理こそ「真理」そのものなのであり、宗教的真理は直接態における真理ではなくで覆い包まれた真理であり、その限りにおいて第二義的な低度の真理であるから。真理要するにイブン・ルシドは、知性が弱く無気力な大衆の教化し制御し難いことを認めてこれに最高真理を直接純粋な形において提供することを諦め、それに代わるものとして宗教を与えておき、自らは俗衆と神学者の次元を高く超越して、ただ独り真理の自覚者としての誇りに生きる傲岸孤高の哲人であった。 [井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫1991、原書1975)第三部スコラ哲学西方イスラーム哲学の発展p383-4]

900 バスターミー自身も、何回もメッカ巡礼を行った。その途中で、「バスターミーよ、何処へ行くのだ」と尋ねる何者かの声が聞こえてくる。「メッカへ」と彼は答える。その時、その不思議な声の主がこう言った、「バスターミーよ、お前は神をバスタームの里に残して来たのではないか」。それを聞いて、私は自分のやっていることがいかに愚かしいことであったかと悟った、と彼は言っている。 [井筒俊彦「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」(「イスラーム思想史」中公文庫1991、原著1989p472]