III 501-600 

岩佐美代子「源氏物語六講」 蕪村句集 玉葉和歌集 伊東光晴「ケインズ」 福沢諭吉「文明論之概略」

501 筏は流れを横切るためにあるのであって、しがみつくためにあるのではない。 [マッジマ・ニカーヤ]

502

MR. KANEHIRA: In the history of the modern nation, it is said every government has an obligation to protect their own citizens. Some people in Japan are saying that those who are kidnapped are willing to take risk and they were expected to assume the responsibility for their own act. What is your comment?

SECRETARY POWELL: Well, everybody should understand the risk they are taking by going into dangerous areas. But if nobody was willing to take a risk, then we would never move forward. We would never move our world forward. And so I’m pleased that these Japanese citizens were willing to put themselves at risk for a greater good, for a better purpose. And the Japanese people should be very proud that they have citizens like this willing to do that, and very proud of the soldiers that you are sending to Iraq that they are willing to take that risk.  [Secretary Colin L. Powell; Interview on Tokyo Broadcasting System International with Shigenori Kanehira, Released on April 15, 2004 http://www.state.gov/images/i spcr08.gif]

503 ごく近刊の葉舒憲・田大憲「中国神秘数字」も全く同じ。事例ばかり多くて、少しも「神秘」ではない。せっかくのおいしい素材をまずく調理するのは、中国学一般に共通する傾向であが、数字についても同断であること、嘆いておいてもよいであろう。 [中野美代子「西遊記の秘密タオと煉丹術のシンボリズム」(岩波現代文庫、2003 (原書1984)) p208]

504 中国の星座は、その名称と形態とがかなり明快に対応していながら、厳密なヒエラルヒーにしばられているため、あくまで静的であり、したがって動的なドラマに乏しいのである。これは、中国の絵画史において、ドラマを描いたのは通俗小説の挿絵だけであるという、興味深い事実と照応するであろう。 [中野美代子「西遊記の秘密タオと煉丹術のシンボリズム」(岩波現代文庫、2003 (原書1984)) p238]

505 演劇の定義はいろいろあろうが、なにはともあれ、約束された空間と時間を、演者と観客が共有することが前提となるはずである。わけても約束された虚構の空間すなわち舞台が、物理的にも心理的にも確立されなければ、演劇は成りたたない。中略

 中国人がこのような虚構の原理にきわめて冷淡であったこと、私はすでにいく度か指摘した。例としてあげたのは、ヨーロッパ人のユートピアに対する桃源境、物語における自己完結性の欠如、絵画における額縁の意味などであったが、演劇の発生が異常におそかったこともまた、有力な例としてあげることが出来るであろう. [中野美代子「西遊記の秘密タオと煉丹術のシンボリズム」(岩波現代文庫、2003 (原書1984)) p297]

506 Upon learning the most complex, the available body of scientific information itself starts to hinder the deeper elucidation of simple fundamentals.  [Tibor G”anti, Chemoton Theory Volume 2: theory of Living Systems (Kluwer Academic/Plenum Publishers, New York, 2003) p454]

507 The phenotypic consequences of inbreeding are well known and were observed long before Mendelian inheritance was understood. Charles Darwin wrote a long book, The Effects of Cross- and Self-Fertilization in the Vegetable Kingdom, which provides a full and accurate description of inbreeding effects. Except for his lack of information on the cause of these effects, the book reads well even today.  [J. F. Crow, Basic Concepts in Population, Quantitative, and Evolutionary Genetics (Freeman, NY 1986) p30]

508 インディアスの発見と征服は、コロンブスやマゼランの航海など王室がこれぞと決断して実施した初期のいくつかの事業をのぞけば、もっぱら民間主導で行われた。すなわち、エルドラードや不老の泉なとを探索する探検型であれ,アステカ王国やインカ帝国の滅亡につながった征服型であれ、未知の土地への進駐(エントラーダ)は一攫千金を夢みて海を渡ったスペイン人がインディアスで暮らすなかで入手した情報に触発されて実行したものである。 [青木康征「南米ポトシ銀山スペイン帝国を支えた打ち出の小槌」(中公新書1543, 2000) p3]

509 John Maynard Smith was a humane, humorous, and sensible person who did not take himself or other people more seriously than they deserved. He had a sensibly skeptical view of science and its claims, which is best encapsulated in the famous dictum of his teacher, J. B. S. Haldane, who said that a scientific idea ought to be interesting even if it is not true.  [Richard Lewontin, “In Memory of John Maynard Smith (1920-2004)”, Science 304, 979 (2004). ]

510 ただ、ここでちょっと申し上げておきたいのは、数というのはたいへん客観的に見えまして、それを出せば文句の付けようがない、というところがございます。特に最近は国文学研究でもコンピュータを活用して、いろいろデータを出して統計処理して、そのことで論文を組立てる、ということも多いかと存じます。けれどもその場合一番大事なのは、数は数にすぎない、ということをしっかりわきまえることです。数を数える前に、先ず作品そのものを、十分に読みこなすこと。そして、つくづく面白いなあ、と感じ、その面白さはどこから来るのだろう、つきとめてみたい、と考えた時、はじめて数統計というものがそのための一つの手段になるかも知れない、というだけのことです。 [岩佐美代子「源氏物語六講」(岩波、2002p68]

511 このような、おとなしく平凡な生活者と見えて、実は非凡な、他の人物とさし替えることのできない個性的なキャラクターを創造した、ということは、紫式部のすばらしい偉大さです。他の人にも、葵上・紫上・明石君はあるいは書けるかもしれない。でも花散里は書けまいと思います。 [岩佐美代子「源氏物語六講」(岩波、2002p92]

512 私は真理のために自分の公に言うべきことは言う。しかしそのため私自身に批評とか弾圧とかが加わっても,一切弁明もせず抵抗もしない。そう態度に決めていたのである。その後の戦いにおいても。私はだいたいこの態度をもち続けたが、その結果は、公のためにもまた私一己のためにも、損失となったよりもむしろ利益となったことが多い。これは言うまでもなくイエスより学んだ戦闘の原則であった。 [矢内原忠雄「戦の跡」(全集26 ) より(立花隆「私の東大論56」に引用(文芸春秋2004 4 p380)]

513 So here’s the book. It’s been fun putting it together. I hope it’s fun to read. I hope you like it. I hope some of it is true.  [J A Fodor, Concepts, where cognitive science went wrong (Clarendon Press, 1998), p.ix]

514 Alexander attended physics lectures by Marcus Herz, and even cajoled his mother into installing a lightning rod at Tegel, the second in all of Germany (after the University of G\”{o}ttingen).  [G. Helferich, Humboldt’s Cosmos, Alexander von Humboldt and the Latin American journey that changed the way we see the world (Gotham Books 2004) p7]

515 In 1797, two years before Humboldt left for Latin America, the great German poet and dramatist Johann Schiller wrote of his young friend, “I am afraid that despite all his talents and restless activity he will never contribute much that is important for science. There is a little too much vanity in all his doings...”  [G. Helferich, Humboldt’s Cosmos, Alexander von Humboldt and the Latin American journey that changed the way we see the world (Gotham Books 2004) p9]

516

5 鶯の声遠き日も暮にけり

26 隈ゝに残る寒さやうめの花

28 うめ散るや螺鈿こぼるる卓(しょく)の上

38 やぶ入りの夢や小豆の煮えるうち

44 これきりに径(こみち)尽きたり芹の中

45 古寺やほうろく捨るせりの中

52 公達に狐化けたり宵の春

58 草霞み水に声なき日ぐれ哉

61 橋なくて日暮れんとする春の水

74 はるさめや暮なんとしてけふも有

75 春雨やものがたりゆく簑と傘

76 柴漬(ふしづけ)の沈みもやらで春の雨

79 古庭に茶筌花さく椿かな

116 遅き日のつもりて遠きむかしかな

117 春の海終日のたりのたりかな

121 大津絵に糞(ふん)落しゆく燕かな

122 大和路の宮もわら屋もつばめ哉

125 曙のむらさきの幕や春の風

131 閣に坐して遠き蛙をきく夜哉

142 居(すわ)りたる舟を上がればすみれ哉

155 雛見世の灯を引ころや春の雨

159 さくらより桃にしたしき小家哉

161 几巾(いかのぼり)きのふの空のありどころ

175 海手より日は照つけて山ざくら

177 花に暮て我家遠き野道かな

185 花の香や嵯峨のともし火消る時

202 花ちりて木間の寺と成にけり

209 菜の花や月は東に日は西に

211 菜の花や鯨もよらず海暮ぬ

218 行春や白き花見ゆ垣のひま

221 まだ長ふなる日に春の限りかな  [蕪村句集 巻之上 春之部]

517

241 岩倉の狂女恋せよ子規

245 草の雨祭の車過てのち

248 寂として客の絶間のぼたん哉

249 地車のとどろとひびく牡丹かな

251 牡丹切て気のおとろひし夕かな

252 山蟻のあからさま也白牡丹

253 広庭のぼたんや天の一方に

265 宵々の雨に音なし杜若

268 短か夜や毛むしの上に露の玉

276 短夜や小見世明たる町はづれ

279 卯の花のこぼるる蕗の広葉哉

285 三井寺や日は午にせまる若楓

288 窓の燈の梢にのぼる若葉哉

289 不二ひとつうづみ残してわかばかな

300 うは風に蚊の流れゆく野河哉

303 蚊の声す忍冬の花の散るたびに

313 病人の駕も過けり麦の秋

325 花いばら故郷の路に似たる哉

326 路たえて香にせまり咲くいばらかな

330 青うめをうてばかつ散る青葉かな

350 さつき雨田毎の闇となりにけり

355 行々てここに行々て夏野かな

396 夜水とる里人の声や夏の月

408 半日の閑を榎やせみの声

420 祇園会や真葛原の風かほる

427 涼しさや鐘をはなるるかねの声

453 裸身に神うつりませ夏神楽

455 灸のない背中流すや夏はらへ

456 出水の加茂に橋なし夏祓   [蕪村句集 巻之上 夏之部]

518 ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて』(岩波書店)によれば、マッカーサーは「自分が頼りとするのは,ワシントンとリンカーンとイエス・キリストだけだ」とよく公言したという。占領軍総司令長官として日本に赴いた時点で、彼にとって「日本は異教徒の東洋的社会であり、キリスト教伝道の任務を持つ白人によって隅々まで支配されて当然の存在」であった。 [小倉千加子「戦後日本と『赤毛のアン』」(「男女という制度」斎藤美奈子編、21世紀 文学の創造7 岩波書店2001p140-1]

520

462 初秋や余所の灯見ゆる宵のほど

474 ひたと犬の啼町越えて躍かな

496 朝がほや一輪深き淵のいろ

506 市人の物うちかたる露の中

512 朝霧や村千軒の市の音

513 朝霧や杭(くいぜ)打音丁々(とうとう)たり

529 月天心貧しき町を通りけり

536 名月や夜は人住ぬ峰の茶屋

537 山の端や海を離るゝ月も今

542 名月や神泉苑の魚躍る

547 鹿啼てははその木末あれにけり

553 去年より又さびしいぞ秋の暮れ(老懐)

554 父母のことのみおもふ秋のくれ

557 門を出れば我も行人秋のくれ

576 水落て細脛高きかがし哉

579 道のべや手よりこぼれて蕎麦花

590 小鳥来る音うれしさよ板びさし

601 追剥を弟子に剃りけり秋の旅

615 市人のよべ問かはすのはきかな

632 村百戸菊なき門も見えぬ哉

648 欠かけて月もなくなる夜寒哉  [蕪村句集 巻之下 秋之部]

521

677 楠の根を静にぬらす時雨哉

683 炉に焼てけぶりを握る紅葉哉

702 咲くべくもおもはであるを石蕗花(つはのはな)

721 たんぽぽのわすれ花あり路の霜

742 蕭条として石に日の入る枯野かな

744 待人の足音遠き落葉哉

768 みどり子の頭巾眉深きいとをしみ

806 皿を踏鼠の音のさむさ哉

807 静なるかしの木はらや冬の月

812 斧入て香におどろくや冬こだち

819 御火焚や霜うつくしき京の町

820 御火たきや犬も中中そぞろ皃

836 山水の減るほど減りて氷かな

837 しづしづと五徳すえけり薬喰  [蕪村句集 巻之下 冬之部]

522

長閑にもやがて成り行くけしきかな昨日の日影けふのはるさめ(伏見院)

はるさめの降るとは空にみえねどもきけばさすがに軒の玉水(後鳥羽院宮内卿)

山のははそこともわかぬ夕ぐれに霞を出づる春の夜の月(中務卿宗尊親王)

くもりなくさやけきよりも中々にかすめる空の月をこそ思へ(権中納言定頼)

雲みだれ春の夜風の吹くなべにかすめる月ぞ猶かすみゆく(従三位親子)

夜よしとも人にはつげじ春の月梅さく宿は風にまかせて(入道前太政大臣)

花よいかに春日うらゝに世は成りて山の霞に鳥のこゑごゑ(伏見院)

おぼつかないづれの山の嶺よりか待たるゝ花の咲きはじむらむ(西行法師)  [玉葉和歌集 巻第一 春歌上]

523

年をへてかはらず匂ふ花なれど見る春ごとに珍しきかな(院中務内待)

春の夜の明けゆく空は櫻さく山の端よりぞしらみそめける(三條入道左大臣)

山もとの鳥の声より明けそめて花もむらむら色ぞみえ行く(永福門院)

あはれしばしこの時過ぎてながめばや花の軒ばの匂ふあけぼの(従三位為子)

遠かたの花のかをりもやゝみえて明くる霞の色ぞのどけき(永福門院内待)

ながめくらす色も匂ひも猶そひて夕かげまさる花の下かな(大江宗秀)

咲きみてる花のかをりの夕附日かすみてしづむ春の遠山(入道前太政大臣)

雲にうつる日影の色もうすく成りぬ花の光の夕ばえの空(藤原為顕)

日に近き庭の櫻のひと木のみかすみのこれる夕ぐれの色(九條左大臣女)

入相の声する山の陰暮れて花の木のまに月出にけり(永福門院)

山深き谷吹きのぼる春風にうきてあまぎる花の白雪(前大納言為家)

秋も猶忍ばれぬべきひかりかな花しく庭のおぼろ夜の月(式部卿親王)

我が身世にふるともなしのながめしていく春風に花のちるらむ(前中納言定家)

降りくらす雨しづかなる庭の面に散りてかたよる花の白波(前関白太政大臣)

長閑なる入相の鐘はひびきくれて音せぬ風に花ぞちりくる(前参議清雅)

年をへて春のをしさはまされども老は月日のはやくも有るかな(皇太后宮大夫俊成)

めぐりゆかば春には又も逢ふとても今日のこよひは後にしもあらじ(前大納言為兼)  [玉葉和歌集 巻第二 春歌下]

525 1938 5 月の段階でも、国防軍統合司令部の参謀長カイテルは、ナチズムの思想を兵士に教え込む権限は、将校、とりわけ中隊長にあることを確認して、大管区指導者(ガウライター)たちの介入の動きを封じている。そしてヒトラー自身も、イデオロギーが暴走すると、技術的合理性を破壊し、軍の戦闘力を低下させる危険性があることをかなりの程度までわきまえていたと考えられる。

 こうして、この問題にまでナチ党の手が及ぶのは、それこそ《第三帝国》の崩壊がほのみえてきた最終局面であった。つまり、スターリングラードでのドイツ軍の敗北、ムッソリーニの失脚、連合軍のイタリア本土への上陸などを経た1943 12 22 日、総統命令によって、赤軍《政治委員》にも似た《国民社会主義指導将校》(NSFO)の制度が導入されたのがそれである。 [山口定「ナチ・エリート、第三帝国の権力構造」(中公新書1976) p238-8]

526 この時期、女の地位というのはそれほど低いものではなく、少なくとも明治のはじめ頃まではある高さを持っていたのではなかったか。それを裏付けるものに明治以前の宗門人別帳というのがあって、その順序は、まず戸主、次に必ず女房、そして子どもの名前が来て、たいていは隠居した老人夫婦は最後に来るのが普通だったのです。これがそのまま日本の封建時代における家族の位置を示すものだったと思われるのですが、明治になって民法ができ、それに従って戸籍ができて名前が書かれると、戸主、次に戸主の父母、そして伯父伯母そして女房、子どもとなる。つまり女房よりも年上のものが、女房との間に割り込んでくるようになるのです。その段階で女の地位が下がってくるようになったのではないか。つまり、戸籍の記録の仕方は非常に大きな意味を持っていいるのではないかと思うのです。 [宮本常一「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」平凡社p115]

527 伊豆の修善寺へ行ったとき、そこの古い宿の主人たちと話していると、古いところは鎌倉時代から続いているという宿もあり、とにかくあまり儲け過ぎてはいけない、つぶれてしまうというのです。何百年も続いたのは、皆に親切にしてきたからだと。そして私の泊まった宿は梅林を持っているのです。個人持ちの梅林ですが、誰が見に行ってもお金を取らないで、管理はその宿でされているのです。 [宮本常一「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」平凡社p143]

528 性病と漁業と津軽三味線

(盲人が増えてきたのは江戸時代の中頃から後のことになるようです。)それは日本で性病が流行り始め、淋菌が目に入ると、たいてい盲人になるのです。これが意外に多く,その病気は近世初期に日本へ入って来たものですが、一般に広がって行くようになったのは江戸中期頃からと思われるのです。しかも、東北地方が目立って多かった。それは一つは無知が問題になりますが、それ以外に遊廓のようなものが発達していて売春婦が多かった。それは菅江真澄の本を読んだ時にも出て来ましたが、この海岸の少し人の集まるような村々にはそういう女性が多かったのです。平常はおそらく自分の家で仕事をしているのでしょうが、魚が獲れる時、市が開かれる時などに、そこへやって来て売春をする。それで病気をもらって、周囲へ拡がっていく。─中略─それは漁村であること、魚の獲れる一時期を持っていることで、これが西南日本へいくとないことはないが、東北のようにはっきりとは出てこない。つまり、東北では魚の非常に大量にとれる一時期があり、それがハタハタであったり、鰯であったり、鰊であったりしたわけです。それが盲人を生み出すもとになっていったようです。

 そしてそれが技術を身につけ、音楽などの職業と書いてあるのは、ご承知のように琵琶法師なのです。あるいは後には三味線もほとんど盲人によって演ぜられるようになるのです。例の津軽じょんがら(津軽三味線)もそうで、日本で一番名人といわれる高橋竹山という人も目が見えないのですが、その原因はやはり性病のようです。 [宮本常一「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」平凡社p176-7]

529 『正三位の物語』の女主人公は、女御にもなれず后にもなれず、それより低い身分の妃のまま正三位の位を授かった。女子に授けられる最高の位階を賜った女は、しかしそればかりで,女達の住まう職制という秩序を壊さなかった。それ故に、兵衛の大君は、志の高さを人々に称賛される。〈しかし、そんな物語がいつまで伝えられるだろうか?限られた世の限られた人の頭にしか理解されないなど、いつか、塵のように消え去ってしまうことだろう〉 [橋本治「窯変源氏物語」 vol 5 松風p259]

530

秋あさき日影に夏はのこれども 暮るゝまがきは荻のうは風(前大僧正慈円)

夕附日さびしき影は入りはてて 風のみ残る庭の荻原(入道前太政大臣)

なびきかへる花の末より露ちりて 萩の葉白き庭の秋風(二品法親王守覚)

数々に月の光もうつりけり 有明の庭の露の玉萩(前大納言為兼)

露重る小萩が末はなびきふして 吹きかへす風に花ぞ色そふ(後嵯峨院)

しをりつる風はまがきにしづまりて 小萩がうへに雨そそぐなり(永福門院)

鳴きつくす野もせの虫のねのみして 人はおどせぬ秋の故郷(朔平門院)

よひのまの村雲づたひ 影見えて山の端めぐる秋のいなづま(伏見院) [玉葉和歌集 巻第四 秋歌上]

531

窓あけて山のはみゆる閨の内に 枕そばだて月をまつかな(信実朝臣)

思ひいれぬ人の過ぎ行く野山にも 秋は秋なる月やすむらむ(定家)

にほの海や秋の夜わたるあまを舟 月にのりてや浦つたふらむ(俊成女)

風のおとも身にしむ夜はの秋の月 更けて光りぞ猶まさりゆく(花園院)

こしかたはみな面影にうかびきぬ 行末てらせ秋の夜の月(定家)

秋そかはる 月と空とはむかしにて世々へし影をさながらぞみる(前大納言為兼)

秋の夜もわがよもいたく更けぬれば かたぶく月をよそにやはみる(頼政)

七十にあまりかなしきながめかな いるかたちかき山のはの月(西園寺入道前太政大臣)

身はかくてさすが有る世の思出に また此の秋も月をみるかな(従二位隆博)

庭しろくさえたる月もやや更けて にしの垣ねぞかげになりゆく(従二位兼行)

更けぬれどゆくともみえぬ月影の さすがに松の西になりぬる(後二条院)

しらみゆく空の光に影消えて すがたばかりぞ有明の月(朔平門院)

小倉山都の空はあけはてて たかき梢にのこる月かげ(前大納言為家)

夕暮れの庭すさまじき秋風に 桐の葉おちて村雨ぞふる(永福門院)

風にゆく峯の浮雲 跡はれて夕日にのこる秋の村雨(平時春)

朝日さす伊駒のたけはあらはれて 霧立ちこむる秋しのの里(前参議実俊)

夕附日むかひの丘のうす紅葉 まだきさびしき秋の色かな(定家)

野邊遠き尾花に風は吹きみちて さむき夕日に秋ぞ暮れ行く(従三位親子) [玉葉和歌集 巻第五 秋歌下]

532 ない可能性に夢を託すことが出来る時分を、若さとは呼ぶのかもしれない。 [橋本治「窯変源氏物語」 vol 8 真木柱p145]

534 箕田は、津田左右吉攻撃の「原理日本」臨時増刊号を出したあとすぐに、かねて「原理日本」に協力的であった各界有力者百四名を糾合して「帝大粛正期成同盟」なるものを作りあげた。中略津田の論文は、「正真正銘の日本抹殺論。東洋抹殺論」であり、「国体の基礎を破壊」するものだとした。中略天皇機関説問題のときと同じように、当局、ならびに世論が、津田史学の排撃に立ちあがってくれるように呼びかけた。そして、中略たくさんの反響があったとして、それをズラリと「原理日本」でならべて紹介した。中略

申すまでもなくわが日本は神国であります。輝かしい紀元二千六百年のこの歴史を聊かなりとも無視するような愚は国内国外を問はず許すことはできません」(詩人 野口雨情)

 文人でいえば,他に萩原朔太郎、川路柳虹、金子薫園、佐藤紅緑、片岡鉄兵なども名をつらねていた。 [立花隆「私の東大論」61 「大逆」と攻撃された津田左右吉の受難  文藝春秋2004 9 月 p456-7]

535 If Nash is an ideal example of a problem-solver, then Grothendieck is an ideal example of a theory builder.  [A Jackson, “Comme Appel’eN’eant—As if summoned from the void: The life of Alexandre Grothendieck,” NAMS 51 1038 (2004). p 1049]

536 In looking back on this brief retrospective of his mathematical work, Grothendieck wrote that what makes up its essence and power is not results or big theory, but “ideas, even dreams.”  [A Jackson, “Comme Appel’eN’eant—As if summoned from the void: The life of Alexandre Grothendieck,” NAMS 51 1038 (2004). p1052]

537 Thom wrote that his relations with Grothendieck were “less agreeable” than with his other IHES colleagues. “His technical superiority was crushing,” Thom wrote. “His seminar attracted the whole of Parisian mathematics, whereas I had nothing new to offer. That made me leave that strictly mathematical world and tackle more general notions, like morphogenesis...”  [A Jackson, “Comme Appel’eN’eant—As if summoned from the void: The life of Alexandre Grothendieck,” NAMS 51 1038 (2004). p1055]

538

13 さくら散る苗代水や星月夜

32 なの花や昼一しきり海の音

44 たたずめば遠きも聞ゆかはずかな

86 ばらばらとあられ降過る椿かな

72 折りもてるわらび凋れて暮遅し

282 田に落て田を落ゆくや秋の水

291 銀杏踏みて静に児の下山哉

294 一本づつ菊まいらする仏達

345 松明消て海少し見ゆる花野かな

529 

炭売に日のくれかかる師走哉

自筆句抄

11 山畑やけぶりのうえのそば畠 [蕪村遺稿 ]

539

君あしたに去りぬゆふべのこころ千々に

何ぞはるかなる

君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ

をかのべ何ぞかくかなしき

蒲公の黄に薺のしろう咲きたる

見る人ぞなき

雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば

友ありき河をへだてて住にき

へげのけむりのはと打ちれば西吹風の

はげしくて小竹原真すげはら

のがるべきかたぞなき

友ありき河をへだてて住にきけふは

ほろろともなかぬ

君あしたに去りぬゆふべのこころ千々に

何ぞはるかなる

我庵のあみだ仏ともし火もものせず

花もまいらせずすごすごとたたずめる今宵は

ことにたうとき [蕪村「北寿老仙をいたむ」]

540 焼畑というものは原始農業である。中略土壌を育てることをしないという点で、典型的な略奪農業である。

 さらには、火を用いるということで、原始的ながらも、工学的な農業といえなくもない。 [司馬遼太郎「中国・◯のみち」(街道をゆく25) p82]

541

伊東 ビアスの『悪魔の辞典』に、辞典とは『ある一つの言語の自由な成長を妨げ、その言語を弾力のない固定したものにしようとして案出された、悪意にみちた文筆関係の仕組み」とあるので、紋切り型のお定まりの説明から一歩進んで、読む人が考えてくれるように書いたんです。「グレシャムの法則」などがその一例です。

岡 「悪貨は良貨を駆逐する」ですね。

伊東 どれでもそう説明されていますが、本当にそれだけでよいのかどうか。中略「このことは「商品と貨幣とは違うのですよ」ということを認識させるものであって、財のうちの一つを貨幣材として、他の財の価値をこれで測るというような、ワルラスの一般均衡論的な考え方に反するものです」ということを書きました。 [伊東光晴、岡敏弘「新しい経済学事典、その可能性」図書 2004-10, p 25]

542 慶滋保胤は陰陽道の大家賀茂忠行の子で、保憲の弟。成人ののち兄に遜る気持ちからから姓の字を変えて賀茂を慶滋としたので、慶滋は即ち賀茂であり、ヨシシゲと読むよりもカモと読んで然るべきである。 [前川誠郎「池亭記と方丈記」 図書2004-10, p20]

543 高橋さんはのちに「ドイツ文学志望」という回想エッセイで、学生時代熱心に聴講したのは、ドイツ人講師ヤーン、美学の大西克禮、ドイツ語学の青木昌吉で、ドイツ文学関係の講義はつまらなかったと述べている。『芸術の秘密』はその大西克禮の線でジンメルの芸術的法則性の探究へと遡ってゆき、次に時代を下ってきてマルクシズム、フロイトを考察し、最後に能を取り上げで、芸術の自由と感動を理論的にとらえる姿勢を獲得した本、こんな風に要約できるだろうか。 [高橋秀夫『芸術理論と雑纂の美学と」 図書2004-10,p56]

544

What advice would you give someone thinking about becoming a biologist?

CW: Do not study biology seriously to begin with. First obtain as broadly based a scientific education as possible. That way you can enter biology with a well-honed scientific sense and an open and inquisitive mind.  [Q & A Carl R. Woese, Curr. Biol., 15 (4)]

545 Science serves a dual function. On the one hand it is society’s servant, attacking applied problems posed by society. On the other hand, it functions as society’s teacher, helping the latter to understand its world and itself. It is the latter function that is effectively missing today.  [Q & A Carl R. Woese, Current Biol 15(4)]

546 Biology today is conceptually weak; it does not know itself. It is putty in society’s hands. Biology is surrendering into servitude, delighting in becoming society’s genie.  [Q &A Carl R. Woese, Current Biol 15(4)]

547 スターリンの質問にたいして答えたジューコフの見解は、あっぱれな正答である。「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」 [半藤一利「ノモンハンの夏」(文藝春秋社、1998)第7章注46 p352]

548 Ten months and thousands of lost Iraqi and American lives later, elections are scheduled to take place with part of the country in the grip of yet another invasion and much of the rest of it under martial law. As for the voter rolls, the Allawi government is planning to use the oil-for-food lists, just as was suggested and dismissed a year ago.

 So it turns out that all of the excuses were lies: if elections can be held now, they most certainly could have been held a year ago, when the country was vastly calmer. But that would have denied Washington the chance to install a puppet regime in Iraq, and possibly would have prevented George Bush from winning a second term.

 Is it any wonder that Iraqis are sceptical of the version of democracy being delivered to them by US troops, or that elections have come to be seen not as tools of liberation but as weapons of war? First, Iraq’s promised elections were sacrificed in the interest of George Bush’s re-election hopes; next, the siege of Falluja itself was crassly shackled to these same interests. The fighter planes didn’t even wait an hour after George Bush finished his acceptance speech to begin the air attack on Falluja. The city was bombed at least six times through the next day and night. With voting safely over in the US, Falluja could be destroyed in the name of its own upcoming elections. In another demonstration of their commitment to freedom, the first goal of the US soldiers in Falluja was to ambush the city’s main hospital. Why? Apparently because it was the source of the ”rumours” about high civilian casualties the last time US troops laid siege to Falluja, sparking outrage in Iraq and across the Arab world. ”It’s a centre of propaganda,” an unnamed senior American officer told the New York Times. Without doctors to count the dead, the outrage would presumably be muted - except that, of course, the attacks on hospitals have sparked their own outrage, further jeopardising the legitimacy of the upcoming elections.  [Naomi Klein, “Die, then vote. This is Falluja Iraqi elections were postponed to save Bush. That led to today’s carnage.” Saturday November 13, 2004 The Guardian

http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,1350316,00.html]

549 イタリアのユダヤ人は、1861年、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世がイタリア国民議会の承認の下で即位し、国家統一が実現した時に、自由・平等の市民権を獲得した。

 しかし皮肉なことに、そうしたユダヤ人の解放がやっと(法的に)完了していった19世紀後半のまさにその時に、新たな、反ユダヤ主義 = アンティセミティズムが成立、発展してゆくのである。民族主義運動の高まりや人種論、進化論等の発展を背景に生まれたアンティセミティズムは、キリスト教思想を基盤にしていた昔からの反ユダヤ主義と異なり、ユダヤ人を識別可能な一つの種族と見なし、その人種としてのユダヤ人に否定的な立場をとる主張である。この反ユダヤ思想こそ一直線にナチスのユダヤ人迫害、絶滅政策に繋がってゆくのである。

 ユダヤ人の解放が実現したまさにその時代に成立するアンティセミティズムの背後には、まぎれもなく永年にわたり軽蔑と差別の対象であったユダヤ人の急激な社会進出に対するヨーロッパ・キリスト教社会の嫉妬やねたみ、怒りと恐れがくすぶっていたのである。 [大澤武男「ローマ教皇とナチス」(文春新書。2004)p30]

550 主なる神よ、彼らがわれわれの主イエス・キリストを信じることができるよう、彼らの頑なな心のベールを取り去ってください」という祈りが、カトリック教会の聖金曜日の典礼で常に唱えられていたのである。[大澤武男「ローマ教皇とナチス」(文春新書。2004) p32]

552 日本では、国内のハマグリ資源がほとんど底をついているのに、スーパーマーケットでは大量のハマグリが売られている。そのほとんどは、大陸(中国、北朝鮮、韓国)から輸入されたシナハマグリである。シナハマグリの小売価格は、地ハマグリ(国産のハマグリ・チョウセンハマグリ)の半値以下である。流通社会の「食卓の魔法」によって、食材の種が変わっているにも関わらず多くの市民は、そのことに気が付いていない。これは「食」という人間の本質的な活動が、自然環境から大きく切り離されていることを示唆する重要な例である。このような状況の下では、人間は食料の生産主体である自然の荒廃に無自覚にならざるを得ない。

─中略

日本は自国の海洋環境を破綻させ、その代用地をアジアに求め飽食を維持し、他国の自然環境を破壊しているのである!

─中略

 私たちが自分の住んでいる場所に、蛤のいる海を持つことが、この複雑な問題に対する、最も有効な解決策ではないだろうか。 [日韓共同干潟調査団ハマグリプロジェクトチーム(山下博由、佐藤慎一、金敬源、逸見泰久、長田英己、山本茂雄、池口明子、水間八重、名和純、高島麗)「沈黙の干潟ハマグリを通して見るアジアの海と食の未来」(高木基金助成報告集vol 1 p85 (2004)]

553 シッダールタはなおも喰い下がった。「ダルマ(法)は、悪意は悪意によって消すことはできない、ということを認識してこそ成立つのだ。悪意は愛情によってのみ消すことができる」 [B. R. アンベードカル「ブッダとそのダンマ」(山際素男訳、光文社新書) p35]

554 ブッダは当時の思想家の中で誰よりもこのカピラの学説に感銘を受けた。その学説だけが論理的で事実に基づくものに思えた。しかしブッダはその総てを受け入れたわけではなく次の三つを肯定したに過ぎない。

 実在性(真実)は証明されねばならない。思惟は合理的なものに基づいていなければならない。宇宙創造主としての神が存在するという考えには何の根拠も論理性もないが、世界には がある。これ以外の説は自分の目標に無関係なものとして無視した。 [B. R. アンベードカル「ブッダとそのダンマ」(山際素男訳、光文社新書) p70]

555

ゆふ園の日影のかづらかざしもてたのしくもあるか豊のあかりの(俊成) [玉葉和歌集 巻第七 賀歌]

556

悔しきは由なく君に馴れそめていとふ都の忍ばれぬべき(西行法師)

我のみと思ふ山路の夕ぐれにさきだつ雲もあともさだめず(法印覚寛) [玉葉和歌集 巻第八 旅歌]

557

吹く風の音に聞きつつ桜花めには見えずも過ぐる春かな(天暦御製)

思ふ程は上にしらせぬ文のうちも猶つつまれて書きぞさしぬる(従三位季子)

かくばかりつれなき人と同じ世に生まれあひけむ事さへぞうき(賀茂重保)

うき人よ我にもさらば教へなむあはれも知らぬ心づよさを(従三位為子) [玉葉和歌集 巻第九 恋歌一]

558

おとせぬがうれしき折りも有りけるよ頼みさだめて後の夕暮(永福門院)

今朝のなごりはれぬ夕のながめより今宵もさてや思ひ明かさむ(永福門院)

恋ひわびてわれとながむる夕暮れもなるれば人のかたみがほなる(定家)

常よりも涙かきくらす折りしもあれ草木をみるも雨の夕暮れ(永福門院)

なか空にひとり有明の月をみて残るくまなく身をぞしりぬる(和泉式部) [玉葉和歌集 巻第十 恋歌二]

559

さてしもは果てぬならひの哀れさのなれ行くままになほ思はるる(従三位親子)

思ふてふその言の葉よ時のまの偽りにても聞くこともがな(従三位親子)

思ひ出づることはうつつかおぼつかな見はてでさめし明暮の夢(二條院宣旨)

玉章にただひと筆とむかへどもおもふ心をとどめかねつる(永福門院)

我が身には苦しきことも知りぬれば物思ふ人のあはれなるかな(花山院御製)

よしなしと思ふ心の豫てよりあらましかばと今ぞかなしき(後深草院少将内待) [玉葉和歌集 巻第十一 恋歌三]

560 したがって日本は宣戦布告の事前通告にそれほど重要性を意識していなかったのではないかと思われる。その証左として、英領マレーのコタバルにおける英軍に対する攻撃は、対米「覚書」の手交予定時刻よりも一時間早い、ワシントン時間の午後〇十五分に開始されていたのである。この事実は、陸軍の無通告開戦の底意を暴露している。 佐藤元英「なぜ「宣戦布告」の事前通告が行われなかったのか」(中央公論2004/120100]

561

鳥の声囀りつくす春日影くらしがたみに物をこそ思へ(永福門院)

明け暮れて日頃へにけり卯の花のうき世の中にながめせしまに(読人しらず)

夕日うつる梢のいろのしぐるるに心もやがてかきくらすかな(建礼門院右京大夫)

はかなさはある同じ世も頼まれずただめのまへのさらぬ別れに(安嘉門院四條)

待たずなる幾夕暮にながめたへてつれなの身やと更にしぞ思ふ(従一位教良女) [玉葉和歌集 巻第十二 恋歌四]

562

その頃はたのまず聞きし言の葉もうき今ならば情ならまし(左大臣)

頼むべき方もなければ同じ世にあるはあるぞと思ひてぞふる(和泉式部)

とにかくに痛はまほしき世なれども君が住むにもひかれぬるかな(西行法師)

夕暮れの空こそ今はあはれなれ待ちも待たれし時ぞと思へば(章義門院小兵衛督)

折々はつらき心も見しかどもたえ果つべしと思ひやはせし(関白前太政大臣)

あらましの今ひとたびを待ち得ても思ひしことをえやは晴るくる(永福門院内待)

いきて世にありと許りはきかるとも恋ひ忍ぶとは誰か伝へむ(院御製)

今更にその夜もよほす雲の色よ忘れてただに過ぎし夕を(新院御製)

ながめつつまたばと思ふ雲の色をたが夕ぐれと君頼むらむ(定家)

夕暮れは人のうへさへ嘆かれぬ待たれし頃に思ひあはせて(和泉式部) [玉葉和歌集 巻第十三 恋歌五]

563 No words can evoke the feelings of a naturalist who first steps on soil outside Europe. So many objects call for his attention that it is hard to order his impression.At each step he thinks he is coming across something new, and in his excitement he does not recognize things that commonly feature in botanical gardens and natural history collectional  [A von Humboldt, Personal Narrative of a Journey to the Equinoxial Regions of the New Continent (transl J Wilson, Penguin Books 1995) p22 original in 1812 according to the original introduction]

564 勤め先では上司や同僚とともに、掃除のおばさんに愛されていた。顔が合うと丁寧に声をかけてくれるのは「カフカさん」だけだったという。それも通り一遍の挨拶ではなく、彼女がなにげなく口にしたことたとえば老父がリューマチを病んでいるといったことで、何げなく口にしたまでであり、当人も言ったのを忘れているようなことをカフカはよく覚えていて、挨拶にひとことつけ加え、案じたり、よろこんだりした。「ドクター」の称号をもつ人に、めったに見られないやさしさだった。 [池内紀、若林恵「カフカ事典」(三省堂, 2003p8]

565 The weapons never existed. It’s like having a loved one sentenced to death for a crime they didn’t commithaving your country burned and bombed beyond recognition, almost. Then, after two years of grieving for the lost people, and mourning the lost sovereignty, we’re told we were innocent of harboring those weapons. We were never a threat to America...

Congratulations Bushwe are a threat now.  [Saturday, January 15, 2005 - posted by river @ 10:53 PM http://www.riverbendblog.blogspot.com / ]

566

われはただ君をぞ惜しむ風をいたみ散りなむ花は又も咲きなむ(花園左大臣)

住む人も宿もかはれる庭の面に見し世をのこす花の色かな(諄子内親王)

物ごとにうれへにもるる色もなしすべてうき世を秋の夕暮(永福門院)

秋にそふうれへもかなしいつまでと思ふ我が身の夕ぐれの空(源具具顕朝臣)

久方の月はむかしの鏡なれやむかへばうかぶ世々の面かげ(入道前太政大臣)

われのみぞもとの身にして恋ひしのぶ見し面影はあらぬよの月(従三位為子)

ながき夜に猶あまりある思ひとや明けてもしばし虫の鳴くらむ(藤原基有)

枯れわたる尾花が末の秋風に日影もよわき野べの夕暮(読人しらず)

年くれしその営みは忘られてあらぬ様なるいそぎをぞする(西行) [玉葉和歌集 巻第十四 雑歌一]

567

3 逢坂の関ふきこゆる風のうえにゆくゑもしらずちる桜かな

33 おもひいづや軒のしのぶに霜さえて松の葉わけの月を見し夜は

81 住めばまた憂き世なりけりよそながら思ひしままの山里もがな

96 うちなびく草葉すずしく夏の日のかげろふままに風たちぬなり

131 年ふればとひこぬ人もなかりけり世のかくれがとおもふやまぢを

137 月やどる露の手枕夢さめておくての山田あきかぜぞ吹く

138 風さやぐ岡の冬草けさのまにうづもれはてて雪はふりつつ

180 冬がれは野風になびく草もなくこほる霜夜の月ぞさびしき

210 あさなあさな咲きそふ花のかげなれやのがれて入りし小野の山ざと

227 おどろかす鐘の音さへ聞きなれてながきねぶりのさむる夜もなし

254 あふ人に又さそはれてたちかへりおなじ山路の花をみるかな [「兼好法師集」]

568

浪のうへにうつる夕日の影はあれど遠つこ島は色くれにけり(為兼)

さ夜ふかき軒ばの峯に月は入りて暗き檜ばらに嵐をぞきく(永福門院)

里々の鳥の初音は聞こゆれどまだ月たかきあかつきの空(永福門院)

降りそそぐ軒端の雨の夕ぐれに露こまかなるささがにのいと(前中納言資信女)¥¥月をこそながめぬらし

か星の夜のふかきあはれを今宵知りぬる(建礼門院右京大夫)

ふりしめる雨夜のねやは静にてほのほみじかき燈の末(従三位為子) [玉葉和歌集 巻第十五 雑歌二]

569 和辻には生前、小説集は一冊もない、私は和辻が小説を書いていたことすら知らなかった。読んで見ると、一葉、漱石、鴎外に較べて、いずれも二級の作品ばかりだった。

 なぜ二級なのか。善人しかでてこないのである。主題が、人間の偉さばかりを追究するもので、悪人、愚か者が一人も出て来ないのである。小説としては、これでは駄目だ、ということがよく分かった。人間の偉さ(崇高さ)には、どんなに偉い人でも限りがあるが、人間の愚かさは底なし沼である。また人間の善には、どんな善人でも限りがあり、併し人間の悪ぶりは底なしである。つまり愚か者、悪人の方が、偉人、善人よりも深みがあるのである。 [車谷長吉「和辻哲郎の小説」(群像2005/1, p302)]

570 PLoS Biology is yours. Download it, copy it, incorporate it in your own database, post or reprint any article; use your imagination. We ask only that you give fair credit to the authors of any work that you use. If you like what you see, e-mail an article to a friend and encourage others to submit their best work. We also invite you to tell us how we can improve the journal and help it evolve into a resource that optimizes the international investment of money, time, energy, and intelligence that goes into the scientific process. You can make a difference.  [Philip Bernstein, Barbara Cohen, Catriona MacCallum, Hemai Parthasarathy, Mark Patterson, Vivian Siegel, “Editorial PLoS Biology “We Are Open,” ” PLoS Biol., 1 3 (2003) ]

571 父は作家の伊藤整。父との会話は良く憶えていない。はっきり思い出すのは、文系か理系のどちらに進学するかで迷っていた時のアドバイスだ。「理科にしなさい。文科のことは理科に行っても学べるが、文科に行くと理科は学べない。理系にすればリスクの少ない人生が送れる」 [伊藤滋回想:「東大名誉教授の珍説「女は逃げ遅れる」の真意」AERA Feb 7, 2005 p25]

572 雲長は命を受けて、関平、周倉と刀兵五百をひきいて華容へ向かった。その後、玄徳の言うのに、「弟は義理を重んずるゆえ、曹操が華容に現れれば、必ず逃がしてやることと存ずるが」「それがし天文を案じましたところ、曹操の命脈はまだ尽きてはおりませぬ。それゆえ、雲長殿に義理を果たさせるよいおりと存じたのでござる」「先生のご神算には、いつもながら感服つかまつる」かくて孔明は、玄徳ととも樊口へ出向いて周瑜の用兵振りを見ることとし孫乾と簡雍に城の守備を命じた。 [三国志演義第四九回 (上、平凡社1972) p 435]

573 さて、稲目は欽明から授かった仏像を小墾田の家に安置して仏道に励み、さらに向原の家を寺としたという。ところが、その後疫病が流行し、多数の死者が出たので、物部尾輿らは国神の怒りとみなし、天皇の許しをえて、仏像を難波の堀江に投棄し、伽藍に火を放った。これが最初の「破仏」である。『元興寺縁起』は、この事件を稲目死後の569 年(欽明三十)のこととする。

中略

· · · この年(=585) の法会の後まもなく、馬子が病気になったので。占うと仏の祟りと出た。馬子は弥勒石像を礼拝し、延命を願ったが、この時、国中に疫病がはやって多数の人々が死亡した。物部守屋と中臣勝海は、疫病の流行は馬子が仏教を信仰しているせいだと敏達天皇に訴える。敏達もそれに同意して、仏教の禁止を命じた。(これが二回目の破仏である)。 [熊谷公男「大王から天皇へ』(講談社日本の歴史03p202-3]

574

勝 三味線は「調子三年」っていって、音を合わせるだけで難しいんだよ。うちには長唄のお弟子さんが沢山いたから、合わない人もいるのね。俺は、五ヶ月か六ヶ月の赤ちゃんのときに、チューニングが合わない音がすると、ワーッと泣いたらしいんだよ。

阿川 へーえ。

勝 俺は勉強したんじゃない。芸ってのは、生まれたときから三味線聴いて、生まれたときからその人たちの芸を見て、真似る、まねぶ、学ぶという道を通るんだ。

阿川 まねぶ?

勝 自分の好きな芸風を真似る。そしてその奴から抜け出すことだな。 [勝新太郎、阿川佐知子対談 967 月(阿川佐知子「阿川佐知子のこの人に会いたい」(文春文庫1997p106]

575

勝 役者ってのは、もっと拍手もらいたいとか、もっと笑わせたいとか、そういう意地汚いことしないでも、一生懸命やってたら、お客は入ってくれる、笑ってくれるんだ。中略お芝居のテクニックで、もちろんサービスはするよ。でも、お客に惚れてもらおうってやるサービスはダメ、俺はしない。自分の好きな芝居してて惚れてくれる。これがほんとの人気だよ。

阿川 媚びないってことですか。

勝 若い頃から媚び方の垢抜けたいい芸を見て育ってきた人の媚び方と、ただ花道行ってファンに挨拶して媚びるのは違うの(笑)。 [勝新太郎、阿川佐知子対談 96 7 月(阿川佐知子「阿川佐知子のこの人に会いたい」(文春文庫1997p108]

576 いま経済および法律の大きな思想の流れを考えるならば、市民社会の法思想が最初の修正を受けるのは、1920年代のワイマール憲法によって象徴される生存権思想の登場であろう。最低限の生活水準以下に落ちた人に対して、最低限の生活を保障することは政府の責任であるということと同時に、最低限の生活、つまり生存権を確保するという考え方の上に、新しい法思想は展開しだした。

 この生存権思想の定着に対応したアカデミックな経済理論が、自由な市場の限界を分配と雇用の面において指摘したピグーとケインズの努力であったということが出来よう。 [伊東光晴「ケインズ」(講談社学術文庫1993p19]

577 資本主義は次第次第に所有と経営が分離し、かつて資本家の中に一括されていたものが、資金を提供するに過ぎない投資家階級と、資本を所有しないけれども、経営を担う経営技能者である経営者とに二分されだしてくるからである。

 そうして、あるべき姿としての経済は、活動階級(Active Class)として企業家階級と労働者階級の利害優先のうえに、非活動階級である投資家階級の利害を押さえることであるという思想となって現れてくるのである。

 かつてイギリスにおいて地主階級は、働かずして食うと批判された。ケインズは地主階級に対するこの批判は正当性をもっているけれども、しかし投資家階級はより以上批判されなければならないと考える。なぜならば、土地の希少性には理由があるが、投資家階級が利子を得る基盤である資本の希少性は、なんら社会的必然性をもっていないからである。 [伊東光晴「ケインズ」(講談社学術文庫1993p28-9]

580

西へゆく月の何とて急ぐらむ山のあなたもおなじうき世を(後徳大寺左大臣)

あれば厭ふそむけば慕ふ数ならぬ身と心とのなかぞゆかしき(鴨長明)

今ぞしる我が身のみにてあるときに人を人とは思ふなりけり(大僧正行尊)

こしかたの夢現をぞわきかぬる老のねぶりの覚むるよなよな(法印公禅)

すまばやとよそに思ひしいにしえへの心には似ぬ山の奥かな(前大僧正道昭)

人も世も思へばあはれいく昔いくうつりして今になりけむ(従三位為子) [玉葉和歌集 巻第十八 雑歌五]

581

おどろかす心も外になかりけりわれとぞ夜はの夢はさめける(前僧正実伊)

あすよりはあだに月日を送らじと思ひしかどもけふも暮しつ(慶政上人)

吹く風に波のたちゐはしげけれど水より外のものにやはる(権少僧都顕俊)

むなしきをきはめ畢りてその上によを常なりと又みつるかな(前大納言為兼) [玉葉和歌集 巻第十九 釈経歌]

582

人はみな送り迎ふといそぐ夜をしめのうちにて明かしつるかな(前大納言忠良)

かしこまるしでに涙のかかるかな又いつかはと思ふあはれに(西行法師) [玉葉和歌集 巻第二十 神祇歌]

583 リスクを単に危険と訳すことはそれこそ危険である。リスクとは敢えて訳せば代償あるいは損失というべき概念である。何に対する?それはベネフィット(利益)を求めるという加速的な行為に対する代償あるいは損失なのである。だからこそ、リスクの動詞はテイクなのである。通常、人は進んでベネフィットを求め、その結果、生じるかも知れないリスクをとる。つまりベネフィットとリスクは同一の当事者が引き受けるからこそフェアネスが成立する。

 しかし、牛肉を食べることによって狂牛病に罹るかも知れないリスクとは一体どのようなベネフィットと連動しているというのか?前述のように、この不可思議な病が私たちの社会に密かに広がり、これほどまでに悩まされることになったそもそもの動因は、生産・流通業者がベネフィットを求めた人為なのである。それなのにリスクだけがジョーカーのように下流に流されて消費者にもたらされているのだ。つまり、ここにはベネフィットとリスクの圧倒的な非対称が存在している。

 人々がこの病気を狂牛病と呼び、ごく稀にしか感染することはないと知りながらもここまで不安になるのは、そこに大きな不公正を直感するからではないか。... 専門家のすべきことはリスク論によって人々を説得することではなく、人々が公正を実感できる言葉を見つけだすことだろう。そして、効率至上主義によって乱された食と生命の平衡関係を、すこしでも回復することにこそ力を注ぐべきである。 [福岡伸一「狂牛病「国内患者。十人の可能性」文藝春秋2005 4 月 「リスク論」は正しいかp345]

584 I remember G. H. Hardy once remarking to me in mild puzzlement, some time in the 1930’s: ‘Have you noticed how the word “intellectual” is used nowadays? There seems to be a new definitiion which certainly doesn’t include Rutherford or Eddington or Dirac or Adrian of me. It does seem rather odd, don’t y’ know.’  [C. P. Snow, The Two Cultures and the Scientific Revolution The Rede Lecture 1959 (Cambridge UP, 1961) p4]

585 A good many times I have been present at gathering of people who, by the standards of the traditional culture, are thought highly educated and who have with considerable gusto been expressing their increduility at the illiteracy of scientists. Once or twice I have been provoked and have asked the company how many of then could describe the Second Law of Thermodynamics. The response was cold: it was also negative. Yet I was asking something which is about the scietific equivalent of: Have you read a work of Shakespeare’s? [C. P. Snow, The Two Cultures and the Scientific Revolution The Rede Lecture 1959 (Cambridge UP, 1961) p15-6]

586 余剰を生産や経済の拡大にあてるという規定はどこにもない。そもそも経済の発展、それによる豊かさの追求という発想がないのである。かれらにだけなかったのではない。進歩とか発展とかいう概念は中国の伝統的な思想一般、とくに儒教に欠けていたものである。 [小島晋治「洪秀全と太平天国」(岩波現代文庫,2001p179]

587 われわれ日本人は、自らの文化的伝統を他の文化の人々に向かって、精緻な言葉によって説明するという伝統を養ってこなかった。論理的な言葉を積み重ねて整合的な理論体系を構築するといった方向には進んでこなかった。例えば、能、茶道、華道、俳句といった伝統文化には、言葉を精緻にして積み重ねていくというよりも、言葉を可能な限り削り取り、最後には言葉がなくなった境地の中に文化の精髄を見ようとする傾向が確かにある。そのようなものとしてそれらは日本文化を代表してきたし、外国においても理解者を得てきた。だが、これからの世代においてそのような態度は続けられないであろう。インド的あるいはヨーロッパ的な世界の人たちの多数に自分たちの立場を説明するためには、これまでのように言葉をつかわない方法ではなくて、言葉を精緻にして一つ一つ論じて積み重ねていく態度こそが必要なのだ。 [立川武蔵「空の思想史原始仏教から日本近代へ」(講談社学術文庫, 2003p18]

588 『ローマ人の物語』連作の表紙に載せる〈顔〉は、各巻すべて私が選びます。この巻では誰を、どのような感じの顔が欲しいがゆえにどの角度で使うかまで、私が決めます。連作の表題を追うだけでもローマ史が一望でき、時代を映す観点から選択した表紙の〈顔〉を見ていただくだけでも、ローマの歴史の経過が想像できるようにと考えたからです。 [塩野七生「ローマ人への20 の質問」(文藝春秋、2000p56]

589 ちなみに、ローマと同じく成文法を持たなかった国家には、ヴェネツィア共和国と大英帝国があります。二国とも、それぞれの時代の現実主義の雄として、勢威を誇った民族でした。 [塩野七生「ローマ人への20の質問」(文藝春秋、2000p112]

590 パンとサーカス〉とは、ローマ人自らが言った言葉である。だがこれは風刺作家の誇張であって、そのような誇張を鵜呑みにしたのでは、歴史上の真実に迫ることができなくなる。それにこの〈小麦法〉が存在したことで、百万都市ローマでも餓死者とは無縁でいられた事実は無視できない。また、類似の社会福祉は、帝国の経済力の向上にともなって地方都市や属州にも普及していったので、あの広大なローマ帝国で飢餓が原因の集団死は、まったくと言ってよいぐらいに起らなかった。この事実のほうこそ、特筆に値するのではないだろうか。 [塩野七生「ローマ人への20 の質問」(文藝春秋、2000p138]

591 文明論とは人の精神発達の議論なり。其趣意は一人の精神発達を論ずるに非ず、天下衆人の精神発達を一体に集めて其一体の発達を論ずるものなり。 [福沢諭吉「文明論之概略」文明論之概略緒言 (1896, 明治8年) p3]

592 今の学者の僥倖とは即ち此実験の一事にして、然も此実験は今の一世を過れば決して再び得べからざるものなれば、今の時は殊に大切なる好機会と云ふ可し。試に見よ、方今我国の洋学者流、其前年は悉皆漢書生ならざるはなし、悉皆神仏者ならざるはなし。封建の士族に非ざれば封建の民なり。恰も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し。二生相比し両身相較し、其前生前身に得たるものを以て之を今生今身に得たる西洋の文明に照らして、其形影の互に反射するを見ば果して何の観を為す可きや。其議論必ず確実ならざるを得ざるなり。 [福沢諭吉「文明論之概略」文明論之概略緒言 p5]

593 書中西洋の諸書を引用して其原文を直に訳したるものは其著書の名を記して出展を明にしたれども、唯其大意を撮って之を訳する歟、又は諸書を参考して趣意の在る所を採り、其意に拠て著者の論を述べたるものは、一々出典を記す可からず。之を譬へば食物を喰いて之を消化したる如し。其物は外物なれども、一度び我に取れば自から我身内の物たらざるを得ず。故に書中稀に良説あらば、其良説は余が良説に非ず、食物の良なる故と知る可し。 [福沢諭吉「文明論之概略」文明論之概略緒言 p6]

594 定則とは即ち道理の本位と云ふも可なり。若し運動の理を論ずるに当て、この定則なかりせば其議論区々にして際限さうことなく、船は船の運動を以て理の定則を立て、車は車の運動を以て論の本位を定め、徒に理論の箇条のみを増して其帰する所の本は一なるを得ず、一ならざれば即ち亦確実なるを得ざる可し。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之一、第一章 議論の本位を定る事 p10]

595 文学盛なれども実学を勤る者少く、人間交際に就ては猜疑嫉妬の心深しと雖ども、事物の理を談ずるときには疑を発して不審を質すの勇なし。摸擬の細工は巧なれども新に物を造るの工夫に乏しく、旧を修るを知りて旧を改るを知らず。人間の交際に規則なきに非されども、習慣に圧倒せられて規則の体を成さず。これを半開と名づく、未に文明に達せざるなり。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之一、第二章 西洋の文明を目的とする事 p17]

596 人事漸く繁多にして身心の需用次第に増加するに至て、世間に発明もあり工夫も起り、工商の事も忙はしく学問の道も多端にして、又昔日の単一に安んず可らず。戦闘、政治、古学、詩歌等も僅に人事の内の一箇条と為りて、独り権力を占るを得ず。千百の事業、並に発生して共に其成長を競ひ、結局は此彼同等平均の有様に止て、互に相迫り互に相推して、次第に人の品行を高尚の域に進めざるを得ず。是に於てが始て知力に全権を執り、以て文明の進歩を見る可きなり。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之一、第二章 西洋の文明を目的とする事 p23]

597 然は則ち合衆国の政治は独立の人民其気力を逞ふし、思ひのままに定めたるものなれば、其風俗純精無雑にして、真に人類の止る可き所に止り、安楽国土の真境を摸し出したるが如くなる可き筈なるに、今日に至て事実を見れば決して然らず。合衆政治は人民合衆して暴を行ふ可し、其暴行の寛厳は立君独裁の暴行に異ならずと雖ども、唯一人意に出るものと衆人の手に成るものと其趣を異にするのみ。又合衆国の風俗は簡易を貴ぶと云へり。簡易は固より人間の美事なりと雖ども、世人簡易を悦べば簡易を装ふて世に佞する者あり、簡易を仮て人を嚇する者あり。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之一、第三章 文明の本旨を論ず p46]

598 文明は譬へば鹿の如く。政治等は射者の如し。射者固り一人に非ず、其射法も亦人々流を異にす可し。唯其目途とする所は鹿をてこれを獲るに在るのみ。鹿をさへ獲れば、立てこれを射るも、坐してこれを射るも、或は時宜に由り赤手を以て之を捕つも妨あることなし。特り一家の射法に拘泥して、中たる可き矢を射ず、獲べき鹿を失ふは、田猟に拙なるものと云ふ可し。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之一、第三章 文明の本旨を論ず 末尾p49-50]

599 文明は一人の身に就て論ず可らず、全国の有様に就て見る可きものなり。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之二、第四章 一国人民の知徳を論ずp51]

600 然るに今此勤王の首唱たる正成が尊氏の輩に隷属視せられて之に甘んじ、天皇も亦これを如何ともすること能はざるは、当時天下に勤王の気風乏しきこと推て知る可し。而して其気風の乏しき所以は何ぞや。独り後醍醐天皇の不明に由るに非ず。保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑あらず。後世の史家諂諛の筆を運らすとも尚よく其罪を庇ふこと能はず。父子相戦ひ兄弟相伐ち、其武臣に依頼するものは唯自家の骨肉を屠らんがためのみ。 [福沢諭吉「文明論之概略」巻之二、第四章 一国人民の知徳を論ずp63]

519 『赤毛のアン』は、女の子がいくら活発で自由闊達であっても、ものごころがついた頃には、きちんとおさまるべきところにおさまる安全な読みものである。逆の方向から見れば、最終的には保守的な人生に回帰するなら、その過程においてはむしろ、女の子が最も活発な子ども時代を送ることを奨励する、すなわち、努力しさえすれば必ず夢は叶うのだと信じこませることによって、もっとも生産性の高い家内労働力を作る読み物である。中略『赤毛のアン』は、結婚までは自立を目指して努力し、そのあとで自発的に結婚制度の中に入る、日本の経済成長にきわめて都合のいい少女たちを量産するのに的確に機能した児童文学である。 [小倉千加子「戦後日本と『赤毛のアン』」(「男女という制度」斎藤美奈子編、21世紀 文学の創造7 岩波書店2001p144-2]

524

いつしかとかへつる花の袂かな時にうつるはならひなれども(俊成)

うすみどりまじるあふちの花みれば面影にたつ春の藤波(永福門院)

月影のもるかと見えて夏木立しげれる庭にさける卯の花(前中納言経親)

郭公空に声して卯の花の垣ねもしろく月そ出でぬる(永福門院)

ともにきく人こそかはれ時鳥今年もこぞの声に鳴くなり(常磐井入道前太政大臣)

五月まつ花のかをりに袖しめて雲はれぬ日の夕暮の雨(藤原景綱)

あやめふくかやが軒ばに風過ぎてしどろにおつる村雨の露(後鳥羽院)

あやめふく軒ばすずしき夕風に山ほととぎす近くなりけり(二條院讃岐)

五月雨は晴れぬとみゆる雲間より山の色こき夕ぐれの空(中務卿宗尊親王)

たちばなの花ちる里の庭の雨に山郭公昔をぞとふ(後京極摂政前太政大臣)

とほぢより吹きくる風の匂ひこそはな橘のしるべなりけれ(郁芳門院安藝)

かがり火の影しうつればぬば玉の夜かはのそこは水ももえけり(貫之)

出でて後まだ程もへぬ中空に影しらみぬるみじか夜の月(入道前太政大臣)

よにかくるすだれに風は吹きいれて庭しろくなる月ぞすずしき(従一位教良女)

庭のうへの水音近きうたたねに枕すずしき月をみるかな(藤原教実朝臣)

夏の夜はしづまる宿の稀にしてささぬ戸口に月ぞくまなき(従三位親子)

行きなやむ牛のあゆみにたつちりの風さへあつき夏の小車(定家)

立ちのぼりみなみのはてに雲はあれど照る日くまなき頃の大空(定家)  [玉葉和歌集 巻第三 夏歌]

533

散りしけるははその紅葉 それをさへとめじとはらふ森の下風(従二位隆博)

しぐれつる空は雪げにさえなりて はげしくかはるよもの木がらし(永陽門院少将)

寂しさはやどのならひを このはしく霜のうへともながめつるかな(式子内親王)

葉がへせぬ色しもさびし 冬深き霜の朝けの岡のへのまつ(従三位為子)

ただひとへ上はこほれる川の面に ぬれぬ木の葉ぞ風にながるる(九條左大臣女)

夜もすがら里はしぐれて 横雲のわかるる嶺にみゆるしら雪(前参議実俊)

したをれの竹の音さへたえはてぬ 余りにつもる雪の日数に(民部卿為世)

暁につもりやまさる 外面なる竹の雪をれ声つづくなり(藤原行房)

かきくらす軒端の空にかず見えて 眺めもあへず落つるしら雪(定家)

ふる雪の雨になりゆく したぎえに音こそまされ軒の玉水(前大納言為家)

ほしきよき夜半のうす雪 空晴れて吹きとほす風を梢にぞきく〔伏見院)

雲を出でてわれにともなふ冬の月 風や身にしむ雪やつめたき(高辯上人)

月影は森のこずゑにかたぶきて うす雪しろし有明の庭(永福門院)

立ちまじり袖つらねしも昔かな 豊のあかりの雲のうへ人(従二位兼行)

焼きすさぶ霜夜の庭火 影ふけて雲居にすめる朝倉のこゑ(大蔵卿隆教)

春秋のすてて別れし空よりも 身にそふ年の暮ぞかなしき(前大納言為家)

としくれて遠ざかり行く春しもぞ 一夜ばかりにへだてきにける〔常磐井入道前太政大臣)

ゆく月日河の水にもあらなくに 流るるごともいぬる年かな(貫之)

過ぎぬれば我が身の老となるものを 何ゆゑあすの春を待つらむ(京極前関白家肥後)

年暮るるけふの雪げのうすぐもり あすの霞やさきだちぬらむ〔伏見院) [玉葉和歌集 巻第六 冬歌]

551 ヒトラーが、ナチスとキリスト教間にも様々な共通性があると考えていたことは、当時の多くの証言により裏付けられる。例えば、ノーベル物理学賞受賞者でヒトラー支持者であったヨハネス・シュタルクは、1930年12月に「ナチズムとカトリック教会」を著して、ヒトラーの思想を解説し、推薦している。シュタルクの論文は多くの読者を獲得し、キリスト教徒の大衆をヒトラー信奉者にする上で多大な効果があった。 [大澤武男「ローマ教皇とナチス」(文春新書。2004) p68]

578

山あらしの過ぎぬと思ふに夕暮に後れてさわぐ軒の松が枝(院御製)

入相の鐘の音こそ恋しけれけふを空しく暮れぬとおもへば(藤原隆信) [玉葉和歌集 巻第十六 雑歌三]

579

雲のうえの物思ふ春は墨染にかすむ空さへあはれなるかな(紫式部)

いづれの日いかなる山の麓にてもゆる煙とならむとすらむ(選子内親王)

先だつをあはれあはれといひいひてとまる人なき道ぞ悲しき(正三位季経)

人の世は猶ぞはかなき夕風にこぼるゝ露は又もおきけり(従三位為子)

思ひきや三とせの秋を過しきてけふ又袖に露かけむとは(従二位行子) [玉葉和歌集 巻第十七 雑歌四]